第39話 千尋も
第39話 千尋も
香織の妊娠が分かってから、数日が経った。
僕は、落ち着いているつもりだった。
でも、たぶん落ち着いてはいなかった。
朝、香織が椅子から立ち上がるだけで目で追ってしまう。
「慎也、見すぎ」
「いや、見てない」
「見てるよ」
香織が苦笑する。
千尋も横から言った。
「かなり見てます」
「いや、だってさ」
「気になるのは分かるけど」
と香織が言う。
「まだそんなに何か変わる時期じゃないから」
「そういうものなの?」
「たぶん」
「たぶんって」
香織は少し笑った。
その笑い方がいつも通りで、少しだけ安心する。
でも、僕の方はやっぱりいつも通りではなかった。
買い物に行けば、重いものは自分が持つ。
風呂掃除もやる。
ゴミ出しも、洗濯物の取り込みも、気づいたら先に動いている。
「慎也、そこまでしなくていいよ」
「いや、するだろ」
「まだ普通に動けるから」
「でも、妊婦だぞ」
そう言うと、千尋が少しだけ目を伏せた。
僕はその表情に気づかなかった。
その日の夜。
夕食のあと、千尋がいつもより静かだった。
香織の隣に座って、
膝の上で指を重ねている。
香織はそんな千尋の様子を見て、
ほんの少しだけ頷いた。
僕はその動きを見てしまった。
「……また話があるやつ?」
思わず先に言う。
香織が苦笑する。
「うん」
「この家の“話がある”の頻度、おかしくない?」
千尋が少しだけ笑った。
でも、すぐに真面目な顔に戻る。
「慎也」
「うん」
千尋は一度だけ香織を見た。
香織が静かに頷く。
その頷き方が、どこか覚悟を促すみたいに見えた。
千尋は小さく息を吸った。
「私も、妊娠しました」
頭の中で、何かが止まった。
「……え?」
「私も、です」
「私も?」
「はい」
千尋はまっすぐ僕を見ている。
僕は香織を見た。
香織は目をそらさない。
もう一度、千尋を見る。
千尋も、真剣な顔で僕を見ていた。
「ちょっと待って」
それしか出てこなかった。
一拍置いて、もう一度言う。
「いや、本当にちょっと待って」
頭の中で、言葉が並ばない。
香織が妊娠した。
それだけでもまだ現実感が薄い。
そこへ、千尋も。
「香織が妊娠した」
「それは分かった」
「いや、それだけでも全然まだ分かってないけど」
僕は千尋を見た。
「で、千尋も?」
「はい」
「同時期?」
香織が答えた。
「近いと思う」
「近いと思う、じゃないんだよ」
思わず言葉が強くなる。
千尋の肩が、ほんの少しだけ揺れた。
その瞬間、僕は我に返った。
違う。
今、そういう言い方をする場面じゃない。
僕は混乱している。
かなり混乱している。
でも、千尋を不安にさせたいわけじゃない。
「ごめん」
先に謝ったのは、僕の方だった。
千尋が少し目を見開く。
「え?」
「今の言い方、きつかった」
千尋は首を横に振った。
「いえ……」
でも、その顔はまだ不安そうだった。
千尋は妻ではない。
元カノで、
香織の親友で、
この家の共同生活者。
この家の中では、もう居場所がある。
でも、子どもとなると話は違う。
千尋自身が、
そこに踏み込んでいいのかを怖がっている。
そのことが、ようやく分かった。
「ごめんなさい」
千尋が小さく言った。
僕はすぐに首を振った。
「なんで謝るの」
「だって……」
千尋は言葉を詰まらせる。
香織がそっと千尋の手に触れた。
千尋はその手を見てから、もう一度僕を見る。
僕はまだ何も整理できていない。
でも、言わなければいけないことだけは分かった。
「驚いてる」
正直に言った。
「かなり驚いてる」
千尋が小さく頷く。
「でも」
僕は息を吐く。
「嫌なわけがない」
千尋の目が揺れた。
香織も、じっと僕を見ている。
「千尋」
「はい」
「嬉しいよ」
「ありがとう」
千尋の表情が止まった。
一瞬、何を言われたのか分からない顔をする。
それから、目に水が溜まって、
ぽろっと涙がこぼれた。
「……うん」
小さな声だった。
香織が千尋の肩をそっと抱く。
「ほら」
香織が、優しく言う。
「慎也だったら大丈夫だって言ったでしょ」
千尋は涙を拭きながら、少しだけ笑った。
「……うん」
「分かってたんだけど」
「でも怖かった?」
香織が聞く。
千尋は小さく頷いた。
「怖かった」
僕はそのやり取りを見て、胸の奥が少し痛くなった。
千尋は、ずっと怖かったのだ。
この家にいていいのか。
この先に入っていいのか。
自分の子どもが、この家の未来に入っていいのか。
たぶん、それをずっと抱えていた。
僕は、それに気づくのが少し遅かった。
「千尋」
もう一度呼ぶ。
千尋がこちらを見る。
「本当に嬉しい」
「……はい」
今度は、ちゃんと頷いた。
香織が少しだけ目を細める。
その顔は安心しているようでもあり、
少しだけ、何かを覚悟しているようでもあった。
僕はそこで、ようやく別の引っかかりに戻る。
嬉しい。
それは本当だ。
千尋を悲しませたくない。
それも本当だ。
でも。
さっきの香織の頷き方。
千尋の覚悟の決め方。
二人の落ち着き。
どう考えても、今この瞬間に初めて知った人たちの反応ではない。
僕はソファにもたれて、深く息を吐いた。
「で」
香織と千尋が、同時にこちらを見る。
「これ、偶然?」
二人が目を合わせた。
その一瞬で、答えはだいたい分かった。
「……またか」
僕がそう言うと、香織が少し困ったように笑った。
「慎也」
「また僕だけ知らなかったやつだよね」
千尋が涙を拭きながら、小さく息を吸う。
香織は逃げない。
千尋も逃げない。
その沈黙が、何よりの答えだった。
僕は天井を見上げた。
父になる。
しかも、二人分。
怖い。
嬉しい。
分からない。
でも、もう一つ分かることがある。
この家はまた、
僕の知らないところで次の形へ進んでいた。
そしてたぶん、次に聞く話は、
もっと僕の頭を止める。
それでも今は、
千尋が泣きながら笑っている。
それだけで、まずはよかった。
僕はそう思うことにした。




