第38話 香織、妊娠
第38話 香織、妊娠
その日は、帰った瞬間から空気が違った。
「ただいま」
玄関で靴を脱ぎながら声をかけると、
「おかえり」
「おかえりなさい」
リビングから、ふたりの声が返ってきた。
声はいつも通りだった。
でも、少しだけ静かだった。
鞄を置いてリビングに入ると、
香織と千尋が並んで座っている。
テレビはついているのに、音量はほとんど聞こえない。
「……何?」
思わずそう言ってしまう。
香織が少しだけ笑った。
「慎也、ちょっと話がある」
「また?」
「また、って何」
「いや、この家の“話がある”はだいたい怖いから」
千尋が小さく笑う。
香織もつられて笑う。
でも、その笑いはいつもより柔らかかった。
僕はそのままソファの前に立った。
「で、何?」
香織が少しだけ目を伏せる。
それから、照れたように笑った。
「赤ちゃん、できたみたい」
時間が止まった。
「……え?」
「妊娠した」
言葉の意味が頭に届くまで、数秒かかった。
「ほんとに?」
「うん」
「病院は?」
「行ってきた」
「いつ?」
「今日」
香織は落ち着いていた。
僕のほうが動揺している。
頭の中が一瞬で白くなる。
父親。
赤ちゃん。
香織。
この家。
いくつもの言葉が浮かんでは消える。
でも――
「……嬉しい」
それだけは、すぐに出た。
香織の目が、ほんの少し潤む。
僕はそのまま手を取った。
「嬉しいよ」
「うん」
香織が小さく頷く。
ようやく実感が、少しだけ追いついてくる。
香織のお腹に、子どもがいる。
僕と香織の子ども。
そう思った瞬間、胸の奥がじんわり熱くなった。
千尋は横で静かに笑っていた。
祝福している顔だった。
でも――
ふと気づく。
ふたりとも、驚いていない。
もっと慌ててもいいはずなのに、
どこか落ち着いている。
その落ち着きが、少しだけ引っかかった。
「……千尋、知ってた?」
千尋は一瞬だけ目を伏せる。
「今日、聞いたの」
嘘ではない。
でも、全部ではない。
「そっか」
それ以上は聞かなかった。
今は、それよりも。
嬉しい。
それが先だった。
「え、じゃあ重いもの持たない方がいいよな」
「お風呂掃除とかも僕やるし」
「買い物も僕が行くし」
「コーヒーって大丈夫なの?」
「刺身は?」
「生卵は?」
気づけば、質問が止まらなくなっていた。
香織が笑う。
「落ち着いて」
千尋も笑う。
「慎也は検索しすぎるタイプだね」
「するだろ、普通」
「ありがとう。でも大丈夫」
「一個ずつでいいよ」
香織が、僕の手を軽く握り返す。
その声で、少しだけ落ち着く。
全部を一度に考えなくていい。
一つずつでいい。
夕食は、いつもより少し静かだった。
僕はつい香織の様子を見てしまう。
箸の動き。
飲み物の量。
食べるペース。
「そんなに見ないで」
「いや、見てない」
「見てる」
と香織。
「かなり見てます」
と千尋。
「だって気になるだろ」
「気にされすぎると食べづらいよ」
「ごめん」
謝って、また見てしまう。
香織は少し笑って、味噌汁を一口飲んだ。
そのタイミングで、千尋が自然に水を差し出す。
香織が普通に受け取る。
その動きが、あまりにも自然だった。
僕だけが、少し遅れている。
そんな感じがした。
食後、僕はいつもより丁寧に食器を流した。
皿の向き。
箸の位置。
小皿の重ね方。
そんなことをしても意味はないのに、
手を動かしていないと落ち着かなかった。
食洗機のスイッチを押す。
低い音が、静かに立ち上がる。
その音を聞いて、ようやく息を吐いた。
振り返ると、
香織と千尋が小さく何か話していた。
僕が近づくと、ふたりは普通の顔に戻る。
「何の話?」
「別に」
と香織。
「たいしたことじゃないです」
と千尋。
「その“たいしたことじゃない”が一番怖いんだよな」
二人は少しだけ笑った。
僕も笑った。
でも――
胸の奥に、少しだけ引っかかりが残る。
その夜は、なかなか寝つけなかった。
隣で香織が眠っている。
静かな寝息。
暗い天井を見ながら、僕は考える。
父になる。
僕が。
この家に、子どもが来る。
怖い。
でも、それ以上に嬉しい。
その気持ちは、はっきりしている。
ただ――
香織と千尋が、何度か目を合わせていた。
あの目配せ。
この家であれが出るときは、
だいたい、僕だけが知らない何かがある。
それだけは、もう分かっている。




