第40話 子ども計画
第40話 子ども計画
千尋の妊娠を聞いてから、リビングの空気はしばらく止まっていた。
僕はソファに座ったまま、香織と千尋を見ていた。
嬉しい。
それは本当だ。
千尋が涙を流しながら笑ったあの顔を見たとき、その気持ちは確かにあった。
でも、それとは別に、頭の奥でずっと引っかかっているものがある。
たしか千尋には避妊していたはずだ。
あのときも、そういう話をした。
通い夫みたいなことをしている以上、
千尋には、この家以外の選択肢もある。
それを奪うわけにはいかない。
そう思っていた。
でも――
目の前の二人は、迷っていなかった。
むしろ、
もう決めている顔をしている。
香織の落ち着き方。
千尋の覚悟の決め方。
二人が何度も目を合わせる感じ。
どう考えても、ただの妊娠を報告している空気ではなかった。
「……これ、偶然?」
僕がそう聞くと、香織と千尋が目を合わせた。
その一瞬で、だいたい分かった。
「またか」
僕はソファの背にもたれた。
「また僕だけ知らなかったやつだよね」
香織が少しだけ申し訳なさそうな顔をする。
「慎也」
「うん」
僕は千尋を見る。
千尋は涙を拭いたあとで、まだ少し目が赤かった。
でも、逃げる顔ではなかった。
「ごめん、慎也」
千尋が言った。
「何?」
少し間があった。
千尋は自分の指先を見て、それからちゃんと僕を見た。
「あの日、危険日だった」
「……は?」
「避妊具が切れてた日」
僕の頭が一瞬止まる。
「いや、あの日……」
「うん」
千尋は小さく頷いた。
「香織と、時期を合わせようって打ち合わせしてたの」
僕は香織を見た。
香織は目をそらさない。
「僕、知らなかったよね」
「うん」
と香織。
「……うん」
と千尋も言った。
僕は目を閉じた。
怒鳴る気にはならなかった。
でも、呆れた。
完全に呆れた。
「あー、もうさ」
頭をかく。
「嘘はもうつかないでね」
「特に、こんな大事なこと」
千尋が少しむくれた顔をする。
「だって、慎也、絶対に避妊するんだもん」
「するだろ」
「だから」
「だからじゃない」
香織が少し笑いそうになったので、僕はじとっと見た。
「笑うところじゃないよ」
「ごめん」
香織は両手を合わせた。
その顔が、まったく反省していないわけではない。
でも、完全に反省しているわけでもない。
僕は深く息を吐いた。
「香織だろ」
「え?」
「この計画の立て方」
香織は少しだけ目をそらした。
それで確定だった。
「やっぱり香織じゃん」
「発案は、まあ……私かな」
「まあ、じゃないんだよ」
千尋が小さく言う。
「でも、細かいところは私も一緒に考えた」
「そこで正直に乗っかるなよ」
「ごめん」
二人そろって謝る。
ふと疑問が湧いた。
「いつからよ」
「……最初から、決まってた」
香織が小さな声で言う。
絶句。
そして脱力。
並んで座っている姿を見ていると、怒るより先に力が抜けてくる。
本当にこの二人は、僕の知らないところで話を進めるのがうまい。
僕の人生の真ん中にある話なのに、僕だけ後から知らされる。
いつものことだ。
いや、いつものことで済ませていい話ではない。
子どもなのだ。
「他に黙ってる計画はないの?」
僕は少しだけ強めに言った。
香織が一瞬、止まった。
千尋も、ほんの少しだけ目を伏せる。
嫌な沈黙だった。
「あるのかよ」
香織は悪びれもなく、もう一度両手を合わせた。
「ごめん」
「あるんだ」
「実は、二人目の計画もある」
「ファッ?」
声が裏返った。
「いやいやいや、まだ妊娠が分かって数日だよね?」
「今、二人目の話する?」
千尋も両手を合わせる。
「ごめん」
「千尋までか」
「そこも、話し合ってはいたから」
「話し合ってはいたから、じゃないんだよ」
僕はそのままソファに倒れ込んだ。
「マジかよ……」
天井が見える。
この家の天井は、いつもこういうときに見ている気がする。
香織と千尋が、小さく笑った。
「笑ってる場合じゃないよ」
「ごめん」
と香織。
「でも、慎也さん、今ちょっと面白かったです」
と千尋。
「面白くない」
そう言いながら、僕も少しだけ笑ってしまった。
たぶん、完全に怒るにはもう遅い。
香織の妊娠を喜んでしまった。
千尋の妊娠も、嬉しいと言ってしまった。
それは本心だ。
だから、計画を知らなかったことに呆れても、
妊娠そのものを否定する気にはなれない。
僕は天井を見たまま言った。
「とにかく、これからは言って」
「うん」
と香織。
「ちゃんと言う」
と千尋。
「本当に?」
「本当に」
と香織。
「たぶん」
と千尋。
「たぶんって言うな」
千尋が少しだけ笑う。
香織も笑った。
その笑い声を聞いていると、家の空気が少しだけ軽くなる。
でも、軽くなったからといって、話の重さが消えたわけではない。
僕は父になる。
しかも、二人分。
香織の子。
千尋の子。
二人とも、この家に生まれてくる。
僕は体を起こして、二人を見た。
「これから、ちゃんと考えないといけないよな」
香織が頷く。
「うん」
千尋も頷いた。
「はい」
「病院のこととか」
「仕事のこととか」
「お金のこととか」
「部屋のこととか」
「部屋は、いずれ変えることになると思う」
と香織が言う。
「もう考えてるの?」
「少しだけ」
「少しだけ、じゃない顔してる」
香織は笑ってごまかした。
千尋も小さく笑う。
僕はまたため息をついた。
でも、さっきよりは重くない。
怖い。
嬉しい。
混乱している。
それでも、逃げる気はなかった。
この家はまた、僕の知らないところで次の形へ進んでいた。
それでも今回は、僕もそこに追いつかなければいけない。
香織が僕を見る。
「慎也」
「何?」
「ありがとう」
千尋も続ける。
「……ありがとう、慎也」
僕は少しだけ目をそらした。
「まだ何もしてないよ」
「でも、受け止めてくれた」
と香織。
「受け止めたというか、受け止めるしかないというか」
「慎也らしい」
と千尋が言う。
「それ褒めてる?」
「褒めてる」
本当かどうか分からない。
でも、千尋の顔はさっきよりずっと穏やかだった。
それなら、まあいいかと思った。
リビングを見回す。
ソファ。
テーブル。
食洗機のあるキッチン。
香織の部屋。
千尋の部屋。
僕の部屋。
ここは、三人で暮らすための家だった。
少し前まで、そう思っていた。
でも、もうそれだけではなくなる。
この家に、子どもが来る。
一人ではない。
二人だ。
僕はまた天井を見上げて、小さく笑った。
「三人の家じゃ、なくなるんだな」
香織が静かに言う。
「うん」
千尋も、少しだけ涙の残る声で言った。
「家族の家に、なるんですね」
その言葉が、妙に胸に残った。
三人の家だった場所が、
少しずつ、
家族の器に変わり始めていた。




