第36話 三つの距離
第36話 三つの距離
静かな夜だった。
夕食も終わり、食洗機も止まっている。
リビングのテレビも消えていた。
香織と千尋は、さっきまで二人でドラマの話をしていた。
最終回の展開がどうとか、あの台詞はずるいとか、
そんな話をずっとしていた。
慎也は自室のドアを開けたまま、スマホを見ていた。
会話の中身は半分くらいしか分からない。
でも、二人が楽しそうなのは分かる。
やがて話し声が途切れて、
リビングが静かになる。
「じゃあ、私そろそろ部屋戻るね」
千尋がそう言った。
「うん。おやすみ」
香織が返す。
「おやすみ」
と慎也も自室から声をかけた。
「おやすみなさい」
千尋はそう言って、廊下の奥へ歩いていった。
玄関側にある千尋の部屋のドアが閉まる。
ぱたん、と小さな音がした。
少しして、香織も立ち上がった。
「私も戻るね」
「うん」
慎也が返すと、香織はリビングの照明を一つ落として、
バルコニー側の自分の部屋へ向かった。
香織の部屋のドアも閉まる。
リビングには、慎也だけが残った。
いや、正確には慎也は自分の部屋にいる。
でもドアを開けているせいで、
リビングと自室の境目は少し曖昧だった。
慎也はスマホを置いて、立ち上がった。
廊下に出る。
右手に自分の部屋。
その先に千尋の部屋。
リビングを挟んだ向こうに、香織の部屋。
三つのドアがある。
それだけのことなのに、
今は妙に意味があるように見えた。
最初は、ただの部屋数だった。
三LDK。
夫婦二人には広すぎる。
それくらいにしか思っていなかった。
香織が三部屋にこだわっていた理由も、
そのときの慎也には分からなかった。
でも今は分かる。
三つの部屋には、それぞれ意味がある。
香織の部屋は、妻の部屋だ。
安心して入れる場所で、
昔から続いている距離がある。
もう夫婦としての慣れもあるし、
少しだけ新しく戻ったものもある。
千尋の部屋は、また違う。
元カノの部屋、と言えばそうなのかもしれない。
でも、それだけではない。
恋人だった頃の距離とも違う。
妻の部屋とも違う。
近いのに、少しだけ慎重になる。
でも、遠いわけではない。
言葉にするとややこしいが、
そのややこしさごと、この家に収まっている。
そして、自分の部屋がある。
戻る場所。
一人になる場所。
ときどき閉じこもる場所。
ドアを閉めれば一人になれる。
ドアを開ければ、リビングの気配が入ってくる。
そのどちらもできることが、
今の慎也には大事だった。
慎也は廊下に立ったまま、少しだけ息を吐いた。
「……三つの部屋でよかったんだな」
声に出ていた。
そのとき、香織の部屋のドアが少し開いた。
「今ごろ?」
香織が顔を出していた。
「聞こえてたのか」
「聞こえた」
香織は少し笑っている。
その声に反応したのか、千尋の部屋のドアも開いた。
「なに?」
と千尋が顔を出す。
「慎也が、三つの部屋でよかったんだなって」
香織が言うと、千尋は一瞬きょとんとして、
それから小さく笑った。
「今ごろですね」
「二人して今ごろって言うなよ」
「でも、二部屋だったら無理だったと思う」
と千尋が言う。
その言い方は、軽いがはっきりしていた。
「それは分かる」
と慎也は答えた。
香織がドアにもたれたまま言う。
「一緒に住むのと、全部一緒は違うからね」
その言葉に、慎也は少し黙った。
この前、一度だけ三人で同じ部屋にいた夜のことを思い出す。
近すぎて、
落ち着かなくて、
誰も悪くないのに、どうしてもしっくり来なかった。
あれで分かった。
三人で暮らすことと、
三人で全部を一緒にすることは違う。
今なら、その意味がよく分かる。
「そうだな」
と慎也は言った。
千尋が自分の部屋のドアを少しだけ開けたまま、廊下に出てくる。
「私、自分の部屋がなかったら、たぶん無理だったと思う」
「そうなの?」
「うん」
千尋は頷いた。
「楽しいけど、ずっと一緒は無理」
「一人でいたい時間もあるし」
「それは僕もある」
「慎也さんは特にあるでしょ」
と千尋が笑う。
「お引きこもり様だしね」
と香織が続けた。
「やめろ」
二人が笑う。
慎也も少しだけ笑った。
からかわれているのに、
不思議と嫌ではなかった。
たしかにその通りだからだ。
意見が合わないとき。
少しだけ気持ちがざわついたとき。
慎也は部屋に戻る。
ドアを閉めて、
スマホで漫画を読んで、
少し時間が経てば、だいたい戻れる。
そのための場所がある。
それは逃げ場というより、
戻り方を整える場所だった。
「でもさ」
と香織が言う。
「慎也の部屋がリビングの横でよかったよね」
「なんで?」
「ドア開けてたら、ほぼ参加してるじゃん」
「参加はしてないだろ」
「してるよ」
と千尋が言う。
「笑うタイミングとか、けっこうこっち見てるし」
「見てない」
「見てる」
香織と千尋が同時に言う。
慎也は少しだけ口を閉じた。
否定しきれなかった。
リビングで二人がテレビを見ているとき、
慎也は自分の部屋にいることが多い。
ドアは開けている。
スマホやタブレットを見ている。
でも、二人の笑い声は聞こえる。
ドラマの話で盛り上がっているのも分かる。
たまに会話に巻き込まれる。
完全に離れているわけではない。
でも、同じソファにずっと座っているわけでもない。
その中間が、慎也にはちょうどよかった。
「全部一緒じゃなくていいんだよ」
と香織が言った。
千尋も頷く。
「一緒にいる場所と、一人に戻る場所が両方あるから、たぶん続くんだと思う」
慎也は三つのドアを見た。
香織の部屋。
千尋の部屋。
自分の部屋。
それぞれが違う。
違うから、保たれている。
同じ家で暮らしているのに、
同じ場所に押し込まれていない。
この距離があるから、
香織は香織でいられる。
千尋は千尋でいられる。
慎也も、慎也でいられる。
そして、必要なときだけ近づく。
それがこの家の形だった。
「なんか」
と慎也は言った。
「やっと分かってきた気がする」
「何が?」
と香織。
「この家の作り方」
香織は少しだけ目を細めた。
「作り方?」
「間取りじゃなくて」
と慎也は続けた。
「距離の取り方」
千尋が少し笑った。
「なんか、それっぽいこと言ってる」
「言うだろ、たまには」
「たまにはね」
香織が笑う。
廊下に三人が立っている。
それぞれの部屋の前にいて、
完全に一緒ではない。
でも、会話は普通に届いている。
慎也はその距離を見て、
少しだけ納得した。
近すぎない。
離れすぎない。
全部を混ぜない。
でも、切り離さない。
たぶんこの家は、
その加減で成り立っている。
香織がふっと欠伸をした。
「そろそろ寝よ」
「そうだな」
「おやすみ」
と千尋が言う。
「おやすみ」
と香織。
「おやすみ」
と慎也。
千尋が部屋へ戻る。
香織も部屋へ戻る。
それぞれのドアが閉まる。
慎也は最後に自分の部屋へ入った。
ドアを閉める前に、もう一度だけ廊下を見る。
静かだった。
でも、その静けさの中に、ちゃんと人の気配がある。
三つの部屋には意味がある。
誰かを遠ざけるためじゃない。
誰も壊さないための距離だった。
慎也は小さく息を吐いて、自分の部屋のドアを閉めた。
かちり、と音がした。
その音も、今はこの家の一部だった。




