第33話 今夜はどっち
第33話 今夜はどっち
夕食を終えると、三人はいつものように自然に動き出した。
食べ終わった皿は、それぞれ軽く流してシンクに入れる。
全員分が揃ったところで、最後の一人が食洗機にまとめて入れる。
今日は慎也が最後だった。
皿の向きを揃えて、
茶碗の角度を少しずらして、
箸立てを奥に入れる。
別に手間だとは思わない。
むしろ、うまく収まると少し気分がいい。
最後にスイッチを押すと、低い作動音が静かに立ち上がった。
香織がコップを寄せながら、
「お茶、あとで入れるね」
と言った。
千尋が「うん」と返す。
そのやり取りも、もう日常の一部になっていた。
慎也はテーブルを軽く拭きながら、二人の動きを横目で見る。
この家の夜は、いつのまにか“決めるもの”ではなく“回るもの”になっていた。
香織がふと振り返る。
「今日、私のとこ来る?」
言い方は軽い。
誘うというより、確認に近かった。
慎也は少しだけ間を置いて、
「……うん」
と答える。
千尋はそのやり取りを聞いて、ほんの少しだけ笑った。
「じゃあ私、先に寝るね」
「おやすみ」
と香織が言う。
「おやすみ」
と慎也も続けた。
三人の声が重ならないように、自然にずれる。
誰も奪い合わない。
誰も遠慮しすぎない。
ただ、“今日はこっち”が静かに決まる。
以前の慎也なら、この会話のたびに胸のどこかがざわついた。
制度めいたものに対する抵抗や、
妙な罪悪感みたいなものが、
毎回少しずつ引っかかっていた。
だが今は、引く前に理解が先に来る。
この家は、こうやって回っている。
千尋はリビングを出て、廊下の奥、自分の部屋へ向かう。
香織はリビングの照明を一つ落としてから、バルコニー側の部屋へ戻っていった。
慎也もそのまま自室へ戻る。
リビングのすぐ横にある、自分の部屋だ。
すぐに香織の部屋へ行くわけじゃない。
そこは、なんとなく決まっていた。
いったん自分の部屋に入って、
少し一人の時間を挟む。
ドアは半分開けたままだった。
ベッドに腰を下ろして、スマホを見る。
たいして頭に入っているわけでもないのに、
ニュースを流して、少しだけ漫画を開く。
テレビの消えたリビングは静かだ。
食洗機の音だけが、遠くで続いている。
慎也はスマホを置いて、洗面所へ向かった。
歯を磨く。
ついでに髭も剃る。
鏡の中の自分を見ながら、
少し前までこんなことはいちいちしていなかったな、と思う。
香織と二人で同じ部屋に寝ていた頃は、
寝る前に身支度を整える、なんて感覚はほとんどなかった。
もう夫婦だったし、
同じ部屋で、そのまま寝るだけだった。
歯磨きくらいはしても、
髭を整えるとか、
部屋着をちゃんと選ぶとか、
そんなことまではしない。
だんだん適当になる。
こうやって夫婦は、
少しずつだらしなくなって、
少しずつときめかなくなっていくのかもしれない。
そのうち寝室も別になるんだろうな、と、
ぼんやり思ったこともある。
でも今は逆だった。
部屋は最初から別々にある。
それぞれ個室があって、
寝るときだけ一緒になる。
だから、一度整える。
慎也は洗面台の前で口をすすいで、
タオルで口元を拭いた。
部屋に戻って、ルームウェアに着替える。
さっきまでの部屋着のままでもいいのに、
なんとなく、そうはしない。
会いに行く前の準備、みたいなものがある。
それは慎也だけじゃない気がしていた。
香織もきっとそうだ。
先に部屋へ戻って、
少しだけ髪を整えたり、
クリームを塗ったり、
そんなふうに迎える側の時間を持っている。
それが分かる。
前とは全然違う。
慎也は自室のドアのところで立ち止まった。
時計を見る。
まだ三十分も経っていない。
でも、もう十分だった。
廊下に出る。
右手に自分の部屋があって、
その先に千尋の部屋がある。
廊下のガラス扉越しに千尋の部屋のドアが見える。
ドアの淵から明かりが漏れている。
まだ起きているのだろう。
リビングを横切る。
明かりを落とした空間に、食洗機の音だけが残っている。
その先、バルコニー側に香織の部屋がある。
ドアの下から明かりが細く漏れていた。
慎也はそこで足を止める。
最初の頃は、この数秒がやけに長かった。
ノックをした方がいいのか、
いや、逆に変なのか、
そんなことをいちいち考えていた。
今はもう、そこまで構えない。
慎也は小さく息を吸って、そっとドアを開けた。
香織はベッドの上に座っていた。
髪はもう乾いていて、照明も少し落としてある。
「来た」
「来たよ」
「うん」
それだけで会話は終わる。
慎也は部屋の中に入って、後ろ手にドアを閉めた。
ぱたん、と軽い音がした。
部屋の空気が、自分の部屋とは少し違う。
洗面所で感じた予感の通り、
香織もたぶん、少し整えている。
そのことに慎也は触れない。
香織も言わない。
でも、分かる。
前みたいに、
同じ部屋でだらだら過ごして、
そのまま眠るだけとは違う。
少しだけ間があって、
少しだけ準備があって、
そのあとで一緒になる。
その違いは、思っていたより大きかった。
慎也はベッドの端に腰を下ろした。
「お茶、飲む?」
と香織が聞く。
「飲む」
「あとで持ってくる」
「うん」
慎也は頷いた。
部屋の外では、食洗機の音がまだ続いている。
家の中は、今日もちゃんと動いている。
今日は香織の部屋。
明日は千尋の部屋かもしれない。
それを誰も奪い合わない。
誰も遠慮しすぎない。
ただ、その日の場所に落ち着いていく。
制度ではなく、もう習慣だった。
慎也はふと、以前より飛躍的に回数が増えていることにも気づいていた。
それは口には出さない。
出すようなことでもない。
でも、その理由なら分かる気がした。
惰性じゃないからだ。
会いに行くまでに少し間があって、
迎える側にも少し時間があって、
それでまた一緒になる。
その小さな手間が、
前にはなかったものを残している。
慎也は隣に置かれた香織のクッションに目をやって、それから少しだけ笑った。
「どうしたの?」
と香織が聞く。
「いや」
慎也は首を振る。
「なんでもない」
なんでもない、
というには少し違う。
でも、まだそこまで言葉にしなくてもよかった。
この家の夜は、今日もちゃんと回っている。
それで十分だった。
千尋のひとりごと
この家に来てから、就寝時間がとても早くなった。
早いと九時半、遅くても十一時。
前の自分からすると、ちょっと信じられない。
一人暮らしの頃は、仕事の帰りにコンビニでサラダとチーズを買って、
ワインを開けて、ネットフリックスを流しっぱなしにしていた。
気づけばソファで寝落ちしていて、
朝になって、首が痛い、みたいな日も普通にあった。
家事はほとんどしなかった。
週に一度、家政婦さんに来てもらって、掃除と洗濯をお願いしていたくらい。
女子力、という言葉からはいちばん遠い生活。
それが、今は違う。
帰ると食事がある。
「おかえり」と言ってくれる人がいる。
大切な親友と、
好きな人がいる。
毎日が、ちゃんと楽しい。
ときどき意見がぶつかることはあるけど、
大げさなケンカにはならない。
少し距離を置いて、
気づいたら普通に戻っている。
次の日に持ち越すことは、ほとんどない。
今日は、慎也は香織の部屋に行っている。
少しだけ、切ない。
でも、考え方を変えれば、
私の方があとからこの関係に入ってきた側だ。
もともとは、香織と慎也の二人だったところに、
自分が加わった。
そう思うと、
今のこの距離は、むしろ贅沢なのかもしれない。
慎也が来ない日は、
私は自分の部屋にこもる。
リビングの音があまり気にならないように、
ドアは閉める。
冷蔵庫からペットボトルを一本持ち込んで、
トイレ以外はあまり部屋を出ない。
YouTubeでヨガの動画を流して、
ベッドの上でストレッチをしたりする。
小鳩のポーズ、とか。
名前はよく分かってないけど、なんとなくそれっぽいやつ。
あとは、ファッション雑誌を読んだり、
スマホを眺めたり。
そういう時間も、嫌いじゃない。
それに――
実は、二人には秘密がある。
慎也が来ない夜は、
ノートパソコンを開いて、
こっそり動画を見ている。
最初は普通にプライムビデオの配信サービスで映画を見ていた。
でも、たまたま観た鬼滅の刃をきっかけに、アニメにハマってしまって、
気づけば、アニメ専門のdアニメストアの配信サービスにまで手を出していた。
ああいうのにハマるタイプじゃないと思っていたのに、
自分でも少し驚いている。
今のところ、このことは誰にも言っていない。
香織にも、
慎也にも。
なんとなく、
そのままにしている。
部屋の中は静かだ。
廊下の向こうで、ドアが閉まる音がした。
たぶん、香織の部屋。
そのあと、
少しだけ物音がして、
やがて静かになる。
私はイヤホンをつけて、
画面に目を落とした。
こういう夜も、
悪くない。




