第32話 個室の意味
第32話 個室の意味
夕食が終わると、家の空気は少しずつほどけていく。
三人で食卓を囲んでいた時間が終わると、誰かが「解散」と言うわけでもないのに、それぞれの動きが始まる。
食べ終わった皿は、各自が軽く流してシンクに置く。
ここの片づけは、そういう流れになっていた。
全員分が揃ったところで、最後の誰かが食洗機に入れる。
今日は慎也が最後だった。
香織の皿。
千尋のマグカップ。
自分の茶碗。
慎也はシンクの前に立って、少しだけ並べ方を考える。
大皿は下。
茶碗は角度をずらす。
汁椀は重ならないように置く。
同じ形の皿は揃えた方が収まりがいい。
「……よし」
別に手間だと思ったことはない。
むしろ、うまく収まると少し気分がいい。
最後に箸立てを入れて、洗剤を確認して、スイッチを押す。
静かな作動音が立ち上がる。
「先にお風呂入るね」
香織がそう言って立ち上がった。
「うん」
と慎也が返す。
「じゃあ私、そのあと」
と千尋が続く。
それで話は終わる。
特に相談したわけでもないのに、今夜の流れが決まっていく。
慎也はテーブルを軽く拭いた。
千尋は飲みかけだったお茶を流しに持っていく。
「それ、こっち置いといて」
と香織が言う。
「明日の朝も飲むから」
「分かった」
と千尋。
「慎也、タブレットそこにあったよ」
と香織が続ける。
「ああ、ありがと」
こんなやり取りが、いちいち止まらない。
小さいことが、そのまま小さいこととして流れていく。
食洗機の音が一定のリズムで鳴っている。
香織は風呂場へ向かい、
千尋はリビングのソファに座った。
テレビをつける。
「あ、これ今日の続きだ」
と千尋が言う。
「見るの?」
慎也が聞くと、
「うん。香織も見るって言ってた」
と千尋が答えた。
そういうことも、もう珍しくない。
テレビはだいたい香織と千尋が中心だ。
バラエティでもドラマでも、二人でよく見ている。
一緒に笑ったり、妙なタイミングで同じところに反応したり、たまに同じ場面で黙り込んだりしている。
慎也はそこにずっと一緒に座っていることは少ない。
スマホを見るか、タブレットを開くか、たまにノートパソコンを触る。
テレビそのものに興味がないわけじゃない。
ただ、二人が見ているときは、二人の方が熱心だ。
慎也は自室へ向かった。
ドアを閉めずに、そのまま開けておく。
ベッドに腰を下ろし、タブレットを開く。
画面をつけると、リビングのテレビの音が少しだけ届く。
ちょうどバラエティ番組が始まったらしく、すぐに二人の笑い声が混じった。
慎也はそれを聞きながら、タブレットを眺める。
自室にいるのに、閉じこもっている感じはしない。
ドアを開けておくと、リビングが少し見える。
香織がソファにもたれている背中と、千尋がクッションを抱えて笑っている横顔が見えた。
そのくらいが、ちょうどいい。
完全に一緒じゃない。
でも、外でもない。
画面に目を落としながらも、リビングの空気は分かる。
今、面白い場面なんだろうな、とか。
ドラマなら、ちょっと重い話をしてるんだろうな、とか。
ドアを閉めれば、もっと静かになるのは分かっている。
でも閉める気にはならなかった。
その音がある方が、この家にいる感じがする。
「……仲いいな」
思わず小さく呟く。
ときどき、僕より仲がいいんじゃないかと思うことがある。
でも、あまり気にしてはいない。
というより、そこへ顔を出せば、ちゃんと三人になるのを知っているからだ。
実際、千尋が慎也に気づいて振り向いた。
「なに見てんの?」
「別に、ニュース」
「嘘っぽい」
と千尋が笑う。
ちょうど風呂から出てきた香織が、髪を拭きながら言った。
「慎也、今度ここ行こうよ」
「どこ?」
タブレットから顔を上げると、香織がテレビの横に出ていた温泉特集を指差した。
「ここ。景色きれい」
「三人で?」
と慎也が聞く。
「三人で」
と香織は当然みたいに言う。
「泊まり?」
と千尋が乗る。
「日帰りでもいいけど、泊まりでもよくない?」
と香織。
「まあ、休み合えば」
と慎也。
「ほら、来たら入るじゃん」
と千尋が笑った。
「入るだろ、その話なら」
二人も笑う。
こういうとき、慎也は少しだけ思う。
やっぱり、ドアを開けていてよかったな、と。
千尋が立ち上がった。
「じゃあ私、お風呂入ってくる」
「うん」
と香織。
千尋が風呂場へ向かうと、リビングは少し静かになる。
香織はテレビを見たまま、ソファの端に寄りかかった。
慎也はタブレットを閉じる。
香織がこっちを見た。
「どうしたの」
「いや」
慎也は少し考えてから言った。
「三部屋あってよかったなと思って」
香織は一瞬だけ目を丸くして、それから笑った。
「今ごろ?」
「今ごろだよ」
「でも、そうでしょ」
と香織はあっさり言う。
「ずっと一緒にいると疲れるし」
「まあ、それはそう」
「一緒に暮らすのと、ずっと同じ部屋にいるのは違うからね」
その言い方が妙に香織らしくて、慎也は少し笑った。
そこへ風呂場のドアが開く音がして、千尋が戻ってきた。
髪をタオルでまとめたまま、リビングを見て言う。
「なに話してたの?」
「三部屋でよかったねって話」
と香織。
「うん、それはほんとにそう」
と千尋がすぐに頷く。
「二部屋だったら、たぶん無理だった」
「やっぱそう思う?」
と慎也。
「思う」
と千尋は即答した。
「ずっと一緒だと、たぶん優しくできない日があるし」
慎也はその言葉を聞いて、少しだけ目を細めた。
そういうことなのだろう。
意見が合わないことは普通にある。
香織に対しても、千尋に対してもそうだ。
ただ、それは大げさな喧嘩になることはあまりない。
慎也が「いや、それは違うと思う」と言えば、
香織が「でもさ」と返し、
千尋が「私はこう思うけど」と続く。
そこまでだ。
どこかで話は止まる。
納得したわけでも、
完全に折れたわけでもないまま、
それ以上は踏み込まない。
そういうとき、慎也は自室に戻る。
ドアを閉める。
ベッドに転がって、スマホで漫画を読む。
喉が渇いたなと思って水を飲みに出る頃には、だいたいどうでもよくなっている。
香織も千尋も、それを知っていた。
慎也が部屋に引っ込むと、
あとで二人が笑いながら
「お引きこもり様、復活?」
なんて言うのも、もうお決まりになっている。
それで済むなら、その方がいい。
全部その場で片をつけなくても、この家は回る。
香織がソファの背にもたれながら、慎也を見た。
「個室って大事でしょ」
「そうだな」
「逃げ場っていうほどでもないけど」
と千尋が言う。
「戻る場所がある感じ」
「うん」
と慎也は頷いた。
「それがあるから平気なんだろうな」
三人とも、それ以上は言わなかった。
テレビの音が少し上がる。
香織がリモコンを取り直し、千尋がソファに座り直す。
慎也はまた自室のベッドに腰を戻した。
ドアは開けたままだった。
リビングでは二人がまた何かに笑っている。
慎也はスマホを開いて、その笑い声を聞いていた。
一緒に暮らしていて、
でも一人になれる。
離れているのに、
同じ家の中にいる感じは消えない。
三つの部屋は、距離を作るためにあるわけじゃない。
むしろ、距離を壊さないためにある。
慎也は天井を見上げた。
「……こういう意味だったのか」
声に出したのは、それだけだった。
答える声はない。
でも、返事がなくても、
もう少し分かった気がした。
■小話
慎也が、不機嫌そうに台所に立っている。
「この中に、電子レンジの横のティッシュを動かした者がいる」
低い声で言った。
香織と千尋は顔を見合わせる。
「あの、私」
千尋が軽く手を挙げた。
「電子レンジ使ったあとに、ティッシュで拭くのよ。
結構汚れてるし。
使おうとしたときにティッシュなかったら、探さないといけないじゃん」
「……ふぁ?」
慎也が、ほんの少しだけ眉をひそめる。
こういうところがある。
千尋はちょっと呆れた顔で言い返した。
「ティッシュなんて、新品がトイレにストックしてあるんだから、
下ろせばいいじゃん」
「そういう問題じゃないのよ」
慎也は即答する。
「使おうと思ったときに“そこにない”のが問題なの」
ぴたりと空気が止まる。
慎也と千尋は、そのまま睨み合った。
その様子を見て、香織が小さく息をつく。
「……じゃあ、今度からレンジの横のティッシュは動かさないね」
少し間を置いて、続ける。
「リビングにもティッシュ置いておくから、千尋はそっち使って」
場は収まった、はずだった。
けれど慎也は、ふいっと顔をそらしてそのまま自室へ向かう。
ドアが閉まる。
ぱたん、と軽い音。
一瞬の沈黙。
そして――
香織と千尋は、顔を見合わせて笑った。
「ウケる。出たよ」
「お引きこもり様」
「あとでケロッとして出てくるから、放っておきましょう」
「うん」
香織はキッチンに向かいながら言う。
「お茶いれるね」
千尋は立ち上がって、
「お菓子あった。部屋から取ってくる」
と言って、軽い足取りで廊下へ消えた。
ドアの向こうでは、たぶん慎也がスマホを見ている。
少し時間が経てば、何事もなかったみたいに出てくる。
この家は、だいたいそんな感じで回っている。




