第31話 説明しない
第31話 説明しない
夕方。
三人で買い物を終えてマンションに戻ると、エントランスの前で管理人と鉢合わせた。
「こんばんは。お帰りなさい」
先に声をかけてきたのは管理人だった。
「こんばんは」
香織が答え、
「こんばんは」
千尋も続く。
慎也は軽く会釈して、「どうも」と短く返した。
管理人は三人の顔を順に見て、ふっと柔らかく笑った。
「今日はご家族でお出かけでしたか?」
ただの挨拶だ。
でも、その一言が落ちた瞬間、慎也の胸の奥で、静かに何かが揺れた。
家族、か。
香織と自分は結婚してるから“家族”なのは当然だ。
でも、その横に立ってる千尋は揺らぎのなかにいた。
千尋は、家族じゃないわけじゃない。
かといって、胸を張って「家族です」と僕は言えるだろうか。
けれど――否定する理由は、もうどこにもなかった。
僕は千尋を見た。
千尋は曖昧な笑顔をしている。
まだその笑顔の位置をどこに置けばいいのかわからないままでいた。
「ちょっと買い物に行ってただけなんです」
香織がやわらかく答える。
「そうでしたか。寒くなってきましたし、気をつけてお帰りくださいね」
「ありがとうございます」
千尋が小さく頭を下げた。
それで会話は終わった。
管理人はそれ以上踏み込まない。
三人の関係を正確に知ろうともしていない。
ただ、生活の一場面として受け取っただけだった。
エレベーターに乗り込むと、扉が閉まる音が静かに響いた。
「……家族、って言われたな」
ぽつりとこぼすと、香織があっさり言った。
「まあ、そう見えるよね」
千尋は何も言わずに、少しだけ笑った。
その笑い方が、どこか“遠慮”と“馴染み”の両方を含んでいるように見えた。
「……そうか」
慎也は短く返した。
エレベーターが上昇する。
三人の影が、壁に並んで揺れていた。
外から見れば、ただの家族に見える。
中身まで知る人はいない。
千尋の立ち位置は、まだ曖昧だ。
でも、その曖昧さごと受け入れている自分がいた。
否定はしない。
するわけがない。
扉が開き、三人はいつものように並んで廊下を歩いた。
「ただいま」
香織が言う。
「ただいま……あ、私も今帰ったんだった」
千尋が少し笑う。
「何だそれ」
慎也も思わず口にした。
「もう家の中の言い方って曖昧だよね」
香織が振り返る。
千尋はまた、うん、と笑った。
会話はそこで切れた。
そのまま鍵を開けて、部屋に入る。
買ってきた袋を置いて、誰ともなくキッチンへ向かう。
いつもの流れだった。
曖昧でいいのかもしれない。
説明できなくても、暮らせている。
今の僕には、それで十分だった。




