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サイショードーキョ(妻妾同居) 〜妻と元カノと三人で暮らしたら、家族が増えていった話〜  作者: カトーSOS


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第30話 作る側

挿絵(By みてみん)



第30話 作る側


 定時で帰れた日は、家の空気が少し違って見える。


 まだ外が明るい。

 エレベーターを降りたときの廊下も静かで、

 夜の帰宅みたいな疲れた匂いがしない。


 慎也は鍵を回して、玄関のドアを開けた。


「ただいま」


 返事はなかった。


 靴を脱いで、リビングを覗く。

 誰もいない。


「……珍しいな」


 いつもなら、どちらかはいる時間だった。

 千尋が先に帰っているか

香織がキッチンか食卓のあたりにいるか。


 それが今日は、家の中がきれいに静かだった。


 慎也は鞄を置いて、キッチンを見た。

 夕飯の準備もまだされていない。


 スマホが震えた。

 香織からだった。


『ごめん。今日は総菜買って帰る』


 少しだけ画面を見てから、

 慎也はそのまま返信した。


『了解。米炊いておく』


 送信して、炊飯器の前に立つ。


 別に、料理ができないわけじゃない。


 むしろ、一人暮らしの頃は普通にやっていたし、

 嫌いでもない。


 香織と暮らすようになってからは、

 香織が自然に台所に立っていたから、

 自分の出番がなくなっただけだ。


 米びつを開ける。


「三合でいいか」


 計量カップですくって、研ぐ。

 水を替える。

 もう一度研ぐ。


 手が覚えていた。


 炊飯器にセットしてスイッチを押す。


 それで終わるつもりだった。


 つもりだったのだが、そこで慎也は冷蔵庫を開けた。


「……ん」


 とんかつ用の豚ロースがある。

 キャベツも半玉残っていた。

 味噌汁の具になりそうな豆腐とわかめもある。


 慎也はしばらくその中を見ていた。


 あんまり勝手に使って、食材を切らしたら困るかとも思う。

 だが、総菜を買って帰ると言っていたのは、

 今日の夕飯をどうするか決まっていなかったからだろう。


 それなら、別にいいか。


「……作るか」


 口に出した瞬間、気持ちが決まった。


 肉を出す。

 塩こしょう。

 小麦粉、卵、パン粉。


 手順は頭の中に残っている。

 むしろ、しばらくやっていなかったせいで少し楽しい。


 キャベツを半分に切る。

 芯を避けて、包丁を細く入れていく。


 刻む音が続く。


 とんとんとん、とんとんとん。


「……まだいけるな」


 思ったより手が鈍っていない。


 切ったキャベツを水にさらす。

 ボウルに氷も入れておく。

 この方がしゃきっとする。


 次に味噌汁の鍋を出す。

 出汁を入れて、豆腐を切る。

 わかめを戻す。


 そこまでやってから、慎也は味噌の容器を見た。


「味噌ダレもやるか」


 名古屋に住んでいる以上、

 とんかつに味噌は、わりと自然な選択肢だ。


 小鍋を出して、赤味噌、みりん、砂糖、少し酒。

 木べらで混ぜる。

 火にかける。

 少し照りが出るまで練る。


 最後に白ごまをたっぷり入れた。


「これこれ」


 匂いだけで、もううまい。


 油を温める。

 衣をつけた肉をそっと入れる。


 じゅわっと音が立つ。


 その音を聞いた瞬間、

 慎也は妙に落ち着いた。


 揚げ物の音は、台所を一気に“ちゃんと料理している場所”にする。


 総菜を買って帰る予定だった家が、

 今はもう、とんかつの匂いのする家になっていた。


 肉を裏返す。

 きつね色を確かめる。


 味噌汁の火を一度止めて、

 サラダ用のキャベツの水を切る。


 ものの三十分もかからなかった。


 慎也は皿を三枚出した。

 キャベツを盛る。

 とんかつを切って乗せる。

 別皿に味噌ダレをたっぷり添える。

 味噌汁の椀を並べる。


 テーブルを拭いて、箸を置く。


 そこまでやっても、まだ少し時間があった。


「……なんか、気が乗ってきたな」


 慎也は自分でそう呟いて、少し笑う。


 こうなると、他にも何かやりたくなる。


 掃除ロボットのスイッチを押す。

 風呂場を軽く流して、浴槽も洗う。

 あとは湯を入れるだけにしておく。


 洗濯機を見ると、乾燥まで終わっていた。

 ドラムを開けると、ほわっと温かい空気が出てくる。


「……まだあったかい」


 洗濯物をリビングへ持っていって、床に置く。

 テレビをつける。

 ニュースの音声を流しながら、そのまま座って畳み始めた。


 シャツ。

 部屋着。

 靴下。

 タオル。


 手は止まらない。


 たたみ終わったものを、

 香織の部屋の前、

 千尋の部屋の前に分けて置く。


 タオル類は洗面所へ持っていく。

 ロール状にまとめて、脱衣場の棚に置く。


 最初はタオルもそれぞれで分けていた。

 でも最近は、もう混ざっている。

 共用になっていた。


 そのことに、前ほど引っかかりはない。


「……終わったな」


 慎也はソファに腰を下ろした。


 変な満足感があった。


 誰かに頼まれたわけじゃない。

 褒められる前提でもない。

 でも、こうして家の中が整うと、やはり気分は悪くない。


 玄関の音がした。


 がちゃり、と鍵が回る。


「ただいまー」


 香織の声。


「ただいま」


 千尋もいる。


「おかえり」


 慎也が返すと、

 二人は並んで靴を脱いだ。


「駅前で一緒になった」

と香織が言う。


「ね」

と千尋が笑う。


 そのまま二人がリビングへ入ってきて、揃って止まった。


「……え?」

 香織がキッチンを見る。


「え、ちょっと待って」

 千尋も目を丸くした。


「揚げ物の匂いする」


「作ったの?」

と香織。


 慎也は少しだけ肩をすくめた。


「うん」

「ご飯と味噌汁だけのつもりだったんだけど」


「これが?」

と千尋がテーブルを見る。

「とんかつっ!」


「キャベツまである」

と香織。


「味噌ダレ?」

と千尋が皿を覗き込む。

「白ごままで入ってる」


「名古屋なんだから、そこは味噌だろ」


 慎也がそう言うと、

 香織が吹き出した。


「そういう問題?」


「大事だろ」


「大事だけど」

と千尋も笑う。


 香織はテーブルの前まで来て、皿を見回した。


「あー、やってくれたの?」


「うん、ご飯と味噌汁だけだけど……」


「いや、だけ、の規模じゃないよ」

と香織。


「普通にちゃんと夕飯」

と千尋。


 二人とも、驚いてはいるが、

 大げさにはしゃいでいるわけではなかった。

 ただ、自然に受け取っている。


 その反応が、慎也には少しだけ心地よかった。


「じゃあ、総菜いらなかったね」

と香織が袋を持ち上げる。


「明日に回せば?」

と慎也。


「そうする」


 千尋が椅子を引いた。


「いただきます、言っていいやつ?」


「まだ座るな」

と香織が笑う。

「手洗ってきて」


「あ、はい」


 千尋が洗面所へ向かう。


 香織はその背中を見送ってから、

 慎也の方を見た。


「助かった」


「別に」


「いや、ほんとに」


 その言い方がまっすぐで、

 慎也は少しだけ目を逸らした。


「たまたまだよ」


「たまたまで、とんかつは揚がらないって」

と香織。


 そこへ千尋が戻ってきた。


「ごめん、お待たせ」


「じゃあ今度こそ」

と香織。


 三人で席につく。


「いただきます」


 味噌ダレのかかったとんかつに、

 千尋が一口目で目を丸くした。


「おいしい」


「うん、おいしい」

と香織も続く。


「白ごま正解だね」


 慎也はその二人を見ながら、味噌汁をすすった。


 頼まれたわけでもないのに、やっていた。

 気づいたら、動いていた。


 それを、二人も当たり前のように受け取った。


 それで、ちゃんと夕飯になる。


 慎也は味噌汁の湯気の向こうで、

 向かいに座る二人を見た。


 こういうことなのだと思った。


 わざわざ言葉にしなくても、

 暮らしの方が先に形になることがある。


 今日は、それがとんかつの匂いで分かった。


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