第29話 近所の視線
第29話 近所の視線
マンションの廊下というのは、意外と人間関係が育たない。
顔は知っている。
会えば挨拶もする。
でも名前までは知らない。
どの部屋に誰が住んでいるかも、ぼんやりとは分かる。
けれど、その“ぼんやり”の向こうへ踏み込む人はあまりいない。
慎也は、同じマンションに住み始めた頃はその距離感がありがたいと思っていた。
今も、ありがたいことには変わりない。
ただ、その距離感に、少しだけ拍子抜けするようにもなっていた。
土曜の午前だった。
平日よりは少し遅く起きたが、もう家の中は完全に動き出している。
香織は洗面所で髪をまとめていて、
千尋はキッチンでマグカップを並べていた。
「コーヒー、今日も三人分でいい?」
千尋が後ろを向いたまま聞く。
「いいよ」
と慎也が答える。
「僕、豆入れる」
「助かる」
と香織が洗面所から言う。
「私、先に洗濯機だけ回すね」
「お願い」
その流れに、もう引っかかりはなかった。
誰が何をするかを話し合った記憶はない。
けれど、話し合わなくても家は動く。
慎也はコーヒーメーカーの前に立って、粉をセットした。
キッチンでは千尋がトーストを焼いている。
香織は洗濯籠を持って、リビングを横切った。
それぞれが別のことをしているのに、同じ朝だった。
コーヒーが落ちる音がする。
慎也はその音を聞きながら、ベランダ越しに外を見た。
今日は晴れている。
空が高い。
こういう日は、香織が大物を洗いたがる。
「今日、シーツまでいく?」
慎也が聞くと、
「いく」
と香織が即答した。
「やっぱり」
と慎也が笑う。
「天気いいし」
と香織。
「じゃあ私はタオル先やるね」
と千尋が続ける。
その会話だけでも、家の中の流れが組まれていく。
朝食を食べ終わる頃には、今日の動きもだいたい決まっていた。
ただし、誰も
「じゃあ私はこれ」
と宣言しない。
向いている方へ、できる方へ、勝手に流れていく。
それが今のこの家の癖だった。
慎也は食後のコーヒーを飲み終えてから、空になったペットボトルをまとめて持った。
トマトジュースのボトルが多い。
香織がよく飲むし、自分も千尋も時々飲む。
「資源ごみ、捨ててくる」
「お願い」
と香織。
「ラベル剥がしたやつ、袋ごと玄関の横」
と千尋。
「了解」
慎也は袋を持って外へ出た。
廊下は静かだった。
休日の午前は、誰かが出かける音と、誰かがまだ寝ている気配が混ざっている。
エレベーターのボタンを押す。
ほどなく扉が開いた。
中に乗ると、下の階で止まる。
入ってきたのは、四十代くらいの女性だった。
たぶん二階か三階に住んでいる人だ。
顔は知っている。何度かすれ違っている。
「おはようございます」
向こうが軽く会釈する。
「おはようございます」
慎也も普通に返した。
それで会話は終わるかと思ったが、女性は慎也の持っている資源ごみの袋を見て、
「ああ、今日でしたね」
と笑った。
「忘れそうになりますよね」
「ですよね」
と慎也も笑う。
「火曜の方が、なんか意識しやすいんですけど」
「分かります」
と女性。
「土日挟むと、曜日感覚ずれちゃって」
「はい」
そこまで話して、一階に着く。
軽く会釈して、互いに別方向へ歩いた。
それだけだった。
それ以上でもそれ以下でもない。
慎也はゴミ置き場へ向かいながら、少しだけ考える。
相手は、慎也が一人で住んでいるのか、
香織と二人で住んでいるのか、
あるいは千尋のことをどう認識しているのか、
たぶん知らない。
知っていたとしても、
その程度のことは、マンション廊下の朝の会話には持ち込まれない。
そこまで踏み込まない。
それが普通なのだ。
資源ごみを置いて戻る途中、今度は駐輪場の前で別の住人とすれ違った。
年配の男性で、いつもキャップをかぶっている。
「今日は暖かいねえ」
いきなりそう言われて、
「そうですね」
と慎也は返した。
「洗濯物、よう乾くわ」
「ほんとですね」
「うちは朝から布団干してる」
「あ、それは気持ちよさそうですね」
会話はそれだけだった。
相手は笑って、そのまま自転車の鍵を外して出ていく。
慎也は玄関に戻りながら、何だか妙な気分になった。
誰も、自分の生活の中身なんか見ていない。
見えているのは、マンションの住人同士が天気の話をしているだけの朝だ。
それで終わる。
家に戻ると、ちょうど玄関のドアが少しだけ開いていた。
「開いてるぞ」
と慎也が言いながら入る。
「シーツ持ってベランダ往復してた」
と香織の声がした。
リビングを見ると、香織がシーツを抱えている。
千尋は洗面所の前でタオルを仕分けていた。
「ごめん、手が離せなくて」
「いや、別にいいけど」
「資源、出せた?」
と千尋。
「出せた」
と慎也。
「あと、今日暖かいですね、って二回くらい言った」
香織が笑う。
「平和だね」
「平和だった」
慎也はそう言ってから、手に持ったままだった空の袋を畳んだ。
「何か言われたりした?」
と千尋が何気なく聞く。
「いや」
と慎也は答える。
「ゴミの日だね、とか、暖かいね、とか、その程度」
「でしょ」
と香織が即答する。
それが少しだけ癪に障った。
「でしょ、って」
「だって、そんなものだよ」
と香織。
「近所の人って、そこまで人の家の中身見てないよ」
「見てないというか」
と慎也は言葉を探す。
「見えてても、答え合わせするほどではない、って感じかもな」
「うん」
と千尋が頷く。
「そのくらいの距離感の方が楽だよね」
慎也はそれを聞いて、少しだけ黙った。
最初はもっと、外から浮いて見えるのではないかと思っていた。
男一人と女二人。
見れば何かしら引っかかる人はいるかもしれない。
少なくとも、自分だったら少しは考える。
でも、考えたとしても聞かない。
聞かないまま、その人の生活として処理される。
そういうことなのだろう。
香織がシーツを抱え直す。
「慎也、ベランダ手伝って」
「はいはい」
慎也はそのままシーツの端を持った。
二人でベランダへ運ぶ。
後ろから千尋が洗濯ばさみを持ってくる。
「そこ、もうちょい左」
と香織。
「こう?」
と慎也。
「そうそう」
「洗濯ばさみ、ここ置くね」
と千尋。
そのやり取りも、マンションの外から見ればたぶん普通だ。
夫婦かもしれないし、親族かもしれないし、同居人かもしれない。
少なくとも、そこに厳密な説明を求める空気はない。
シーツを広げ終わって、三人でベランダから空を見た。
確かによく晴れている。
「今日は乾くね」
と千尋が言う。
「うん」
と香織。
慎也も頷いた。
そのまま三人で部屋へ戻る。
その時、慎也は不意に思った。
説明しなくても、生活はそのまま流れていく。
外から見れば、それはただの朝で、
ただの洗濯で、
ただの挨拶で終わる。
それを少しずるいと思う気持ちもある。
でも同時に、そうやって流れていくからこそ、
この生活も生活として存在できるのだとも思う。
リビングに戻ると、コーヒーの残り香がまだ少しだけしていた。
千尋がカップを片づけ、
香織が洗濯機の次の設定をして、
慎也はベランダのサッシを閉める。
誰も何も説明していない。
でも、朝はちゃんと続いていく。
それでいいのかもしれない、とまではまだ言えない。
ただ、少なくとも、
思っていたよりずっと普通に、生活は流れていくのだと、
慎也は少しだけ拍子抜けしながら知っていた。




