第28話 朝の外側
第28話 朝の外側
目が覚めたとき、もうキッチンの音がしていた。
包丁がまな板を軽く打つ音。
フライパンに何かを落としたときの、短い油の跳ね。
食器が触れ合う小さな音。
慎也は布団の中で一度だけ目を閉じ直した。
前なら、その音を聞いた瞬間に少しだけ身構えた。
今日ももう始まっている。
今日ももう、自分の知らないところで朝の流れが動いている。
そう思っていた。
でも今は、そこまでいちいち引っかからない。
眠気を払いながら起き上がり、顔を洗って、着替える。
その動きの途中で、今日は何をするんだっけ、とはもう考えない。
考える前に、身体が次の動きを覚えている。
リビングへ出ると、香織がキッチンに立っていた。
フライパンの前で、菜箸を動かしている。
卵焼きの甘い匂いがした。
千尋は食卓の方にいて、小皿を並べていた。
箸置きまで揃えて、味噌汁のお椀も置いてある。
「おはよう」
千尋が先に顔を上げた。
「おはよう。コーヒー淹れる?」
「いや、僕やる」
慎也はそう言って、そのままキッチン横の棚に手を伸ばした。
「ゴミ出しついでにポスト見てくるし」
「じゃあお願い」
と香織が言う。
「パン焼けたら出すね」
「うん」
それだけだった。
頼む側も頼まれる側も、自然すぎた。
前なら、この自然さにいちいち引っかかっていた。
なんでこうなる。
なんで話し合ってもいないのに決まってる。
そういう言葉が先に立っていた。
今は、体の方が先に動いている。
慎也はコーヒーメーカーに粉を入れて、水を確認した。
スイッチを押すと、静かな作動音が立つ。
その横で、まとめておかれたゴミ袋を手に取る。
「資源じゃないよな?」
「今日は可燃」
と香織が即答する。
「トマトジュースのペットは洗ってベランダ側に置いてある」
と千尋が続けた。
「了解」
慎也はそれを聞いて、少しだけ口元を緩めた。
前なら、
なんでそこまで把握してるんだよ
と内心でつっこんでいた。
今はもう、
ああ、そうだろうな
と思う。
玄関で靴を履く。
後ろから千尋の声がする。
「ポストに何か入ってたら、テーブルの上でいいよ」
「分かった」
ドアを開けると、朝の空気が少しひんやりしていた。
マンションの共用廊下は、まだ静かだった。
遠くでエレベーターの扉が閉まる音がする。
慎也はゴミ袋を持って歩きながら、ふと思う。
こうやって外へ出るとき、自分はもうこの家の“外担当”みたいになっている。
妙な言い方だが、そうとしか言えない。
ゴミを出す。
ポストを見る。
重いものを持つ。
外に出る用事を引き受ける。
それが誰かに決められたわけでもないのに、今は自然に自分の側へ寄ってきている。
ゴミ置き場で袋を置いたとき、
「おはようございます」
と後ろから声がした。
振り返ると、同じ階に住んでいるらしい男性だった。
顔は知っているが、名前は知らない。
「おはようございます」
慎也も普通に返す。
それだけで終わった。
相手はそのまま別の袋を置いて、軽く会釈して戻っていく。
何も起きない。
特に何も思われていない、というより、
生活の一場面としてそのまま流れていく感じだった。
慎也はそのまま郵便受けを見に行った。
広告が二枚、管理会社のチラシが一枚。
たいしたものは入っていない。
戻りながら、
そういえば前はこういう何も起きなさに拍子抜けしていたな、
と慎也は思う。
もっと目立つと思っていたわけではない。
だが、三人で暮らしているという事実は、
自分の中ではまだ少し特別な重さがある。
それなのに、外へ出ると全部が普通の朝の流れになる。
そのことに、今はもう苛立ちより先に、
生活ってそういうものなのかもしれないな、
という感覚の方が近くなっていた。
家に戻る。
玄関を開けると、ちょうどトースターの音が鳴った。
「おかえり」
と千尋。
「ただいま」
慎也は郵便物をテーブルの端に置いた。
その横には、もう三人分の皿が並んでいる。
コーヒーの匂いも立っていた。
「味噌汁よそうね」
と千尋が言う。
「お願い」
と慎也は答えながら、マグカップを三つ並べた。
香織が焼き上がった卵焼きを切っている。
パンを皿に移して、サラダを添える。
その流れの中に、自分がコーヒーを置く。
それで朝の形が完成する。
慎也はそのことに気づいて、少しだけ黙った。
自分がいなくても回る部分はある。
でも、自分が入ることでちゃんと収まりがよくなる場所もある。
それは、前よりずっとはっきり分かるようになっていた。
「何?」
と香織が聞く。
「いや」
慎也は首を振る。
「何でもない」
「何でもない顔じゃないけど」
「いい方の何でもないだよ」
と千尋が笑う。
「そういうことにしておく」
と香織も返した。
三人で食卓につく。
「いただきます」
声が少しずれて重なる。
卵焼きは少し甘めで、
味噌汁には豆腐とわかめが入っていた。
千尋がいつの間にか刻んでいた小口ねぎが上に散っている。
慎也は黙って一口食べた。
普通にうまい。
普通にうまい朝食を、
三人で普通みたいに食べている。
そのことに、前ほど強い抵抗はない。
「今日、帰り遅い?」
と香織が聞く。
「たぶん普通」
と慎也。
「そっちは?」
「私は少し遅いかも」
「買い物して帰る」
と香織。
「私、今日は先帰れると思う」
と千尋が言う。
「冷蔵庫見ておくね」
「助かる」
と香織。
慎也はそのやり取りを聞きながら、味噌汁をすする。
もう、
なんでそんなに滑らかなんだ
と強く腹を立てる感じではない。
ただ、
こうして段取りが勝手に繋がっていくのを見ると、
自分もその流れの中で普通に返事をしている。
そこに引き返す感じがないことだけは、ちゃんと分かる。
食事が終わる。
慎也は立ち上がって、自分の食器を軽くすすいだ。
千尋も同じように立って、横に並べる。
「そのままでいいよ」
と香織が言う。
「あとで入れるから」
「うん」
慎也はタオルで手を拭いて、そのまま玄関へ向かった。
鞄を持つ。
鍵を確認する。
靴を履く。
香織も来る。
千尋も来る。
狭い玄関に三人が並ぶ。
「じゃあ、行ってきます」
と慎也。
「行ってらっしゃい」
と千尋。
「行ってきます」
と香織。
「行ってらっしゃい」
と慎也が返す。
「何その返し」
と香織が笑う。
「いや、つい」
千尋も笑った。
そのままドアを開ける。
廊下に出る。
三人で並んでエレベーターへ向かう。
誰かに見られたとしても、
たぶんただの朝だ。
そう見えるだろうし、
実際、今の自分にとっても、
もうかなり朝だった。
特別な何かではなく、
続いていく生活の一部としての朝。
そのことを慎也は、エレベーターの閉まる扉を見ながら少しだけ思った。
この流れは、もう家の中だけのものじゃない。
玄関の外へ出ても、ちゃんと続いている。
そして自分も、その流れの中にもう普通に立っていた。




