第27話 うまくいくのが腹立つ
第27話 うまくいくのが腹立つ
家に帰ると、もう夕飯の匂いがしていた。
玄関のドアを開けた瞬間に、それが分かる。
醤油の焦げる匂い。
湯気の立つ汁物の気配。
何かを刻む軽い音。
そのどれもが、もうこの家では珍しくなくなっていた。
珍しくない、ということ自体が、慎也にはまだ少し気に入らなかった。
「おかえり」
先に声をかけたのは香織だった。
キッチンに立っている。
フライパンの前にいて、片手で菜箸を動かしていた。
「おかえり」
続けて千尋の声もする。
食卓の方にいて、小皿を並べているところだった。
「……ただいま」
慎也は靴を脱ぎながら、小さく返した。
それだけのやり取りなのに、空気が妙に出来上がっている。
最初の頃みたいなぎこちなさがない。
かといって、わざとらしい気遣いもない。
ただ、回っている。
その感じが、やっぱりまだ腹立たしい。
鞄を置いてリビングに入る。
食卓には、もう三人分の箸が並んでいた。
湯呑みも三つ。
小鉢も三つ。
主菜の皿も、取り分けやすい位置に置かれている。
慎也はそれを見て、少しだけ眉をひそめた。
おかしいはずだった。
こういう生活は、もっと引っかかるものだと思っていた。
洗濯や買い物や朝の支度みたいな、細かいところで少しずつ歪みが出るはずだった。
なのに出ない。
出ないどころか、
日ごとに流れがよくなっている。
そこが腹立つ。
「今日、ちょっと味薄いかも」
香織がそう言う。
「じゃあ後で少し足せばいいんじゃない?」
と千尋がすぐに返す。
「そうする」
その会話が軽い。
だが軽いままで、ちゃんと終わる。
誰も変に張り合わない。
誰も不機嫌にならない。
慎也だけが、心の中で
いや、そんなに収まりよくいくなよ
と思っている。
自分でも変なことを考えているとは分かっていた。
「何その顔」
香織が振り返って言う。
「何でもない」
「何でもない顔じゃないよ」
「……別に」
慎也は椅子に座った。
食卓につく。
千尋が味噌汁をよそう。
香織が皿を運ぶ。
慎也は湯呑みにお茶を注いだ。
そのどれもが自然すぎた。
誰も
「じゃあ私これやるね」
とも言わない。
なのに回る。
向いている方へ、できる方へ、勝手に流れていく。
それが一番怖い。
「昨日、健太くんと飲んだでしょ?」
千尋が何気なく聞く。
「……うん」
「何て言ってた?」
と香織。
慎也は箸を止めた。
何て言っていたか。
最初は不倫かと思った。
次に壮絶だなと言った。
そのあと一瞬だけ馬鹿な方向へ飛び、
最後は全然羨ましくないな、に着地した。
かなり正しい反応だったと思う。
「まあ、引いてた」
「そりゃそうか」
と香織が笑う。
「でも、ちゃんと話せた?」
と千尋。
「話したくはなかったけどな」
「でも話したんだ」
「見られたからな」
そこで香織と千尋が、顔を見合わせて少しだけ笑った。
慎也はその笑いが気に入らない。
何となく、
また自分だけが真面目に困っているみたいに見えるからだ。
実際そうなのかもしれないが、それでも気に入らない。
食事が終わる。
慎也は食器を持って立ち上がる。
軽くすすいでシンクに置く。
千尋も同じように立って、
同じようにすすいで、
慎也の横に並べる。
香織はその後ろから
「あとで食洗機入れるから、そのままでいいよ」
と言う。
流れる。
やっぱり流れる。
食後、三人でそのままリビングに残った。
テレビはついているが、誰も真剣に見ていない。
香織はソファに浅く座り、
千尋はその横でクッションを抱えている。
慎也は少し離れた椅子に座っていた。
距離まで変に落ち着いている。
もう日常の配置みたいになっている。
それがたまらなく腹立たしい。
慎也はしばらく黙っていた。
黙っていたが、黙っているほど苛立ちだけが残る。
だから、ぽつりと口に出した。
「……うまくいくの、腹立つな」
香織がすぐに笑う。
「何それ」
千尋も少し首をかしげた。
「分かるような、分からないような」
「もっと引っかかれよ」
と慎也は言った。
「いや、引っかかられても困るけど」
「困るけど、こんなに自然に回るのも変だろ」
香織はあっさり答える。
「変なのは最初からだよ」
「でも、回るならいいんじゃない?」
と千尋も続ける。
「よくない」
慎也は反射的に言った。
だが、そのあとで少し声が鈍る。
「いや……よくないわけじゃないけど」
「よく分からない」
それが本音だった。
完全に嫌なら、もっとはっきり拒否できる。
完全に間違いだと思うなら、もっと怒れる。
でもそうじゃない。
生活は前より回っている。
家の中も整っている。
誰かが無理して潰れている感じでもない。
それどころか、
香織も千尋も、変に我慢しているようには見えない。
自分だけが、まだこの生活を変だと思っている。
そして、その自分の方が浮いてきている気がする。
それが一番腹立たしい。
「僕はまだ、これを正しいとは言えない」
慎也はテレビの方を見たまま言った。
「でも、間違ってるとも言い切れない」
香織も千尋も、その言葉にはすぐ返事をしなかった。
笑って流すでもなく、
重く受け止めるでもなく、
ただ少し黙っていた。
その沈黙も、変に悪くなかった。
慎也は小さく息を吐く。
変なのに、回る。
回るから、余計に腹が立つ。
腹が立つのに、
その生活の中に、もう自分も入ってしまっている。
そこからだけは、もう目をそらせなかった。




