第26.X話 壮絶だな
第26.X話 壮絶だな
駅前の居酒屋は、平日の夜らしくほどよく混んでいた。
会社帰りの二人組。
仕事の愚痴を大声で話す連中。
カウンターで一人で飲んでいる男。
そういうありふれた夜の中に、自分も紛れているはずなのに、慎也だけは妙に落ち着かなかった。
先に来ていた健太が手を上げる。
「おう」
「……おう」
向かいに座る。
とりあえず生を二つ頼んで、料理も適当にいくつか頼む。
いきなり本題に入る空気でもなかった。
健太が先に口を開いた。
「元気そうだな」
「あぁ」
慎也は曖昧に返す。
元気そう、というのも妙な話だった。
元気かどうか自分でもよく分からない。
だが、ここで
「いや、実は」
と始めるのも違う。
だから、しばらくは差し障りのない話になる。
「俺さ」
と健太がジョッキの水滴を指でなぞりながら言った。
「あそこのコンビニの開店サポートやってたんだよ」
「へえ」
「今日が俺にとっての最終日」
「店の開店日が、そのまま俺の仕事の締めって感じ」
「なるほど」
慎也は頷く。
昼間、あのレジで顔を合わせた時のことが頭をよぎる。
だが、今はまだそっちへは行かない。
健太の方も、そこへ飛び込まずに続けた。
「この前、子どもができてさ」
「ほぉ」
「お父さんになったからには頑張らんとなーって思ったんだ」
その言い方が、少し照れくさそうで慎也は小さく笑った。
「あゆみさん元気か?」
「あぁ、元気元気」
「ただ、授乳に昼も夜もないみたいで、寝不足だっていってたよ」
「そりゃ大変だな」
「大変みたいだな」
「俺は仕事で出てる時間もあるけど、家帰ると顔色違うもん」
そこでジョッキが運ばれてくる。
「お待たせしました」
二人ともとりあえずグラスを上げる。
「お疲れ」
「おう」
軽く合わせて、最初の一口を飲む。
少しだけ間が持つ。
それから、また健太が口を開いた。
「で」
短い。
だが、それで十分だった。
「今日のあれ、何だよ」
来た。
慎也はしばらく黙っていた。
店のざわつきが、妙に遠くに感じる。
隣の席の笑い声。
店員の「お待たせしました」という声。
焼き物の匂い。
それらが全部、うっすら膜を一枚隔てた向こう側みたいだった。
「たぶん、一言では説明できない」
「そこはもう見て分かる」
健太の声は低い。
からかっているわけではない。
ちゃんと聞くつもりの声だった。
「慎也」
「うん」
「お前、香織と結婚したよな」
「した」
「で、今日一緒にいたの、千尋だったよな」
「うん」
「元カノだよな」
「……うん」
健太はそこで一度だけ目を閉じた。
「不倫?」
「ち…ちがう。」
慌てて慎也は否定する。
「じゃあ、なんでお前と千尋が親しげにお買い物してるんだよ。」
「……言いにくいんだけど」
「そうだろうな」
「香織と千尋、僕の3人で暮らしてる。」
「ふぁっ?」
健太が変な声を出す。
「いや、ちょっと待って」
「うん」
「どういうこと?」
そうだよな。健太でも「チョットマッタ星人」になるよな。慎也は苦笑した。
「説明しにくいんだけど」
「ちゃんと説明しろ」
「普通に考えたら、まずいだろ」
「そう見えるよな」
「見えるだろ」
「香織はどう言ってるの?」
「どういうも何も、香織が提案者らしい。」
「……ちょっと待って」
ほら、出た。そうなる。
健太は額を指で押さえて理解しようとする。
「どういうこと?」
ほら、理解できない。
慎也は大きく息を吐き、説明する。
「だから、
香織曰く、
香織と千尋は親友。
香織と僕は夫婦。
僕と千尋は元カレ元カノ。
みんな大切な三人だから、一緒に暮らす」
健太が絶句している。
息をつき、ぬるくなったビールを一気に飲む。
そして、やっとの一言が出た。
「……壮絶だな」
その評価は真っ当だと慎也は思った。
「壮絶だよ」
慎也は小さく言った。
「だよな……」
健太はまだ額に指を当てたまま、しばらく黙っていた。
大学の頃からの付き合いだが、
今みたいに慎也をどう扱えばいいのか分からない顔は、たぶん初めて見た。
でも、それでよかった。
安易に笑われるよりずっといい。
「つまり、香織が千尋を誘って」
と健太が言う。
「三人で暮らそうって決めて」
「お前はそれを知らなかったってこと?」
「だいたいそう」
「……ちょっと、待って」
ほら、また出た。
「まだ待つのかよ」
「待つだろ」
「そんなの、普通一回じゃ処理できるか」
慎也は少しだけ笑った。
だが、その笑いは明るいものじゃない。
どうしようもなさに対する笑いだった。
「しかもさ」
慎也は少しだけ前屈みになる。
「生活が妙に回るんだよ」
「回る?」
「朝の支度も」
「買い物も」
「洗濯も」
「家事分担も」
「絶対どこかで揉めると思うだろ」
「思うな」
「でも揉めない」
健太は少し顔をしかめた。
「それ、余計怖いな」
「そうだよ」
「もっと分かりやすい修羅場かと思った」
「修羅場だよ」
「ただ、怒鳴るとか壊れるとか、そういう分かりやすいやつじゃない」
慎也は続ける。
「壊れてないんだよ」
「壊れてないのが一番困る」
「……ああ」
「壊れてたら、まだ“だめだ”って言えるだろ」
「でも今のところ、妙に回ってる」
「合理的に回ってる」
「それで、お前が一番しんどいのか」
「いや。楽なんだ。」
「なんか、生活が香織と夫婦二人で暮らしてたときより充実してるんだよ。」
「目に見えて、生活水準が向上してるっていうか」
健太は黙って聞いている。
「だから、困る。」
「反対できない。」
健太はジョッキを置いて、少しだけ視線を落とした。
「今日レジで見た時はさ」
「不倫かと思った」
「まあ、そう見えるよな」
「見えるだろ」
「普通そうだろ」
「普通そう見える状況だから」
「でも、隠すしかないだろ」
と慎也は続けた。
「説明しても誰も一発じゃ分からないし、そもそも説明する機会がない。」
「分かったとしても、今度は違う意味で引かれる」
「今、俺まさに引いてるけど」
「だろ」
そこで健太も小さく笑った。
だが、その笑いはさっきまでの軽口とは違っていた。
「……でも、ある意味」
と健太が言う。
「男にとっては羨ましい状況じゃないか?」
「異世界ハーレムか!」
「ばかいうな」
慎也はすぐに切り返した。
「現実の生活だよ」
「……」
「よく考えてみろ」
「奥さんが二人いるのと同じことなんだ」
健太が「はっ!」と、気づく。
「全然羨ましくないな」
「……だろ」
慎也は視線を落とす。
ようやくそこまで来たか、と思った。
羨ましいでも、
勝ち組でも、
ラッキーでもない。
変で、
面倒で、
責任と空気読みと生活実務が全部乗っている話だ。
「お前、よく逃げてないな」
「逃げたらもっと面倒になる」
「そこまで分かってるのが余計しんどいな」
「説明が一番しんどい。」
健太はしばらく黙っていた。
「……で」
と健太が言う。
「今日、千尋も普通にそこにいたよな」
「いた」
「香織は?」
「家にいる」
「いや、もう意味分かんねえな」
「僕だってそうだよ」
そこで二人とも、少しだけ笑った。
笑ったが、明るい感じではない。
どうしようもなさに対する笑いだった。
「でもさ」
と健太が言う。
「一個だけ分かった」
「何が」
「お前、自分から話したかったわけじゃないだろ」
慎也は少しだけ目を見開いた。
「……うん」
「だよな」
「お前からこういうのベラベラ言うタイプじゃないもんな」
「言いたくなかったよ」
「でも今日のあれ見たら、聞くしかないだろ」
「だから呼んだ」
健太はそこで小さく頷いた。
ようやくこの会話の入口を理解した顔だった。
「分かった」
「とりあえず、俺の中では整理した」
「できた?」
「完全には無理」
「でも少なくとも、“羨ましい話”ではない」
「うん」
「あと、“不倫”って一言で片づけるのも違う」
「そう」
「違うけど、だからって楽でもない」
「そう」
「めんどくせえな」
「めんどくせえよ」
慎也はそこで、ようやく料理に手を伸ばした。
冷めかけた唐揚げを口に入れる。
ぬるかった。
でも、それで少しだけ体が現実に戻った。
そのときだった。
「そろそろ、男同士の話は終わった?」
女の声がして、慎也は顔を上げた。
振り向くと、香織と千尋がいた。
どうやら二人で勝手にあとから合流してきたらしい。
慎也は思わず眉をひそめる。
また勝手に話が進んでいる。
「健太先輩、久しぶり」
香織が手を振る。
「健太くん、コンビニで会ったときはビックリしたよ」
千尋が肩をすくめる。
健太は一瞬、完全に固まってから、苦笑した。
「……いや、こっちがびっくりしたわ」
「ねえ、あゆみちゃん呼ぼうとLINEしたんだけど」
と香織が言う。
「赤ちゃんいるから無理だって」
「そりゃそうだろ」
「写真もらっちゃった」
「かわいいね」
香織はそう言って、スマホの画面を慎也に見せる。
慎也は一瞬だけそれを見る。
赤ん坊の顔が写っていた。
たしかにかわいかった。
「香織と千尋、なんか、すごいことになってるみたいだね」
と健太が言う。
「ううん」
と香織があっさり返す。
「変だけど、すごくはないよ」
「みんな仲良くやってるだけだよ」
と千尋も続ける。
「ねー」
香織と千尋が顔を見合わせて、軽く笑う。
慎也はその空気に、また胃のあたりが重くなる。
健太は一度その二人を見て、それから少しだけ慎也の方へ体を寄せた。
女二人に聞こえないように、小さく耳打ちする。
「お前、すごいな」
「この二人と一緒にいるのか?」
「尊敬するわ」
「そういうこと言うのヤメて」
慎也は眉間に皺を寄せて、小声で返す。
「男同士で、内緒話?」
香織がすぐに気づく。
「別に」
と慎也が言う。
「怪しいなあ」
と千尋が笑う。
ちょうど店員が近くに来た。
「あっ、お兄さん、ビール二つね」
と香織が手を上げる。
「はい、かしこまりました」
健太はその流れを見ながら、小さく息を吐いた。
「臨時同窓会だな」
「そうだね」
と香織が言う。
「ほんと、変な再会」
と千尋も笑う。
慎也だけが、まだ少しだけ真顔だった。
だがその真顔のままでも、
もうこの場からは逃げられない。
健太はさっきまでの“壮絶だな”をまだ飲み込みきれていない顔で、
それでも目の前の女二人の自然さに、さらに混乱しているようだった。
その表情を見て、慎也は少しだけ思う。
ほらな。
説明されても、やっぱり一回では分からない。
この生活は、そういう種類のものなのだ。




