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サイショードーキョ(妻妾同居) 〜妻と元カノと三人で暮らしたら、家族が増えていった話〜  作者: カトーSOS


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第26.6話 開店前夜

挿絵(By みてみん)


第26.6話 開店前夜


 開店前夜の店内は、見た目だけならかなり整っていた。


 棚は埋まり、値札も並び、レジまわりも形になっている。


 だが、実際はまだ終わっていない。


 商品は入りきっていない。

 細かい確認も残っている。

 人の動きもまだ固まっていない。

 スタッフへの最終指示もある。


 見た目が整ってくるほど、オーナーは安心しかける。

 そして、その安心が一番危ない。


 俺はそういう前夜を何度も見てきた。


 高木さんは、その真ん中にいた。


 疲れていた。


 いや、疲れていたという一言では足りない。


 目の下にうっすら影が出ていて、

 返事はしているのに頭の中では半分別のことを考えていて、

 何かを確認しに歩いたはずなのに、途中で別の仕事に引っかかって止まる。


 そういう“限界の手前”の動きになっていた。


 それでも逃げない。


 そこが、この人のいいところでもあり、危ないところでもある。


「レジ横、これでいいですか」


 スタッフの一人が声をかける。


 高木さんはそっちを向きかけて、

 その瞬間にバックヤードから別の声が飛ぶ。


「オーナー、飲料の補充場所どこでしたっけ」


「あ、はい、えっと……」


 目が一瞬だけ泳ぐ。


 その隙に、棚の前で値札をつけていたスタッフが

「これ、番号ずれてます」

と呼ぶ。


 全部拾おうとする。


 そして、どこにも届かない。


「高木さん」


 俺が呼ぶ。


「はい!」


 声だけはすぐ返ってくる。


「今、レジ横は見なくていいです」


「でも――」


「今は飲料の補充場所だけ答えてください」


「……はい」


 高木さんは一拍遅れて頷いた。


 まだ完全には切り替えられていない。

 だが、前よりはましだ。


 少なくとも、言われた順番で動けるようにはなってきている。


 バックヤードでは、最後の搬入分がまだ残っていた。


 段ボールが積まれている。

 発注番号の控えが貼られている。

 納品書がクリップで挟まれて、棚の上に立てかけてある。


 店内では値札をつける作業が続き、

 清掃の担当が床の隅を見ている。


 表から見れば、もうかなり完成に近い。


 だが、こういう時こそ危ない。


 完成に見える時ほど、人は気を抜く。


 だから俺は、最後まで優先順位だけを見ていた。


「値札のずれは後」

「飲料補充場所を先に統一」

「レジ横の細かい見た目は最後」

「明日の朝に動線で困るものだけ今直す」


 そういう指示を、一つずつ出す。


 感情は入れない。


 疲れている人間に感情を足すと、現場は余計に死ぬ。


 必要なのは整理だ。


 高木さんはそれを理解してきている。


 ただ、今日はさすがにきついらしい。


 閉店後の店のように見える店内で、

 まだ開いていない店を作っている。


 その歪さが、人を消耗させる。


 時計はもう遅い時間を指していた。


 スタッフを順に上げる。


「今日はここまでで大丈夫です」

「明日、少し早めに入ってもらいます」


 そう伝えると、みんな明らかにほっとした顔をした。


 当然だ。


 前夜に全員を限界まで使っても意味はない。

 本番は明日だからだ。


 スタッフが帰って、店の中に残ったのは俺と高木さんだけになった。


 店内は急に静かになった。


 冷蔵ケースの低い音だけが聞こえる。

 まだ人の体温が残っているのに、空気だけが少し冷えて感じた。


 高木さんはレジの前で立ったまま、しばらく動かなかった。


 それから、店内を見回してぽつりと漏らした。


「開店前夜って、もっと静かだと思ってました」


 俺は少しだけ手を止めた。


「静かに見えるだけです」


「そういうものですか」


「前夜は、だいたい最後まで何か残ってます」


 高木さんは苦笑した。


「夢見てたのと全然違いますね」


「そうですね」


「もっとこう……」

「明日に向けて気持ちを整える時間があるのかと思ってました」


「そういう人もいます」

「でも現場は、だいたいそんな余裕ないです」


 高木さんは小さく笑った。


「ないですね」


 その笑いは、もう強がりではなかった。


 実感として出た笑いだった。


「座りますか」


 俺が言うと、高木さんは少し遅れて笑った。


「……座ったら、たぶん立てなくなります」


「じゃあ立ったままで」


「そうします」


 その返事のあと、少しだけ沈黙が落ちる。


 俺は値札の束を一つ確認して、机の端へ置いた。


 高木さんは、まだ店内を見ている。


 疲れている。

 だが、それだけじゃない。


 怖くなっている顔だ。


「もう無理です」


 ぽつりと、高木さんが言った。


 独り言みたいな声だった。


 俺は手を止める。


「まだ始まってません」


 高木さんが苦笑する。


「いや、そういう意味じゃなくて……」


「そういう意味でもです」


「……厳しいなあ」


「厳しいです」


 そこで初めて、高木さんはちゃんとこっちを見た。


「怖いんですよ」


 その言葉は、思っていたよりまっすぐだった。


 言い訳でもなく、

 弱音を隠した笑いでもなく、

 本当にそのまま出てきた声だった。


「何がですか」


 聞く。


 分かってはいる。

 だが、本人の口から出た方がいい。


「明日、本当に開くのかって」


「開きます」


「いや、そうじゃなくて」

「開いたあとです」


 高木さんは店内を見回した。


「ここまで来て、やっと分かったんです」

「開店って、ゴールじゃないんですね」


「はい」


「むしろ、逃げられなくなる日なんですね」


 少しだけ言葉が荒れていた。


 それでも、変に整えようとはしなかった。


 もうそういう段階じゃない。


 今は、本音の方が大事だ。


「そうです」


 短く答える。


「怖いですね」


 高木さんが言う。


 その声は静かだった。


 強がっていない分だけ、余計に重い。


「怖くない開店なんてないです」


 俺はそう返した。


 高木さんは、しばらく黙っていた。


 それから小さく笑った。


「それ、慰めになってるようで、全然なってないですね」


「慰めてないです」


「ですよね」


 少しだけ空気が緩む。


 こういう時、下手に

“大丈夫です”

と言っても意味はない。


 大丈夫じゃないからだ。


 だが、怖いのが自分だけじゃないと分かるだけで、人は少しだけ立てる。


「健太さんは、こういう前夜、何回も見てるんですよね」


「見てます」


「慣れます?」


「慣れないです」


「え」


「毎回違うんで」


 高木さんはそこで、本当に少しだけ驚いた顔をした。


「慣れるっていうより」

「優先順位を見失わなくなるだけです」


「……」


「怖いのは普通です」

「でも、怖いままでもやるしかないです」


 高木さんは頷いた。


 今度は前より深く。


「たぶん」

と高木さんが言う。

「最初は、自分の店を持つことしか考えてなかったです」


 俺は何も言わない。


「でも今は、持つっていうより」

「ちゃんと回したいです」


 その言葉が出た時点で、この人はもう少し前に進んでいる。


 夢から現場へ。

 所有から運営へ。


 そこに意識が移った。


 それは大きい。


「それで十分です」


 俺が言うと、高木さんは少しだけ目を細めた。


「十分ですか」


「はい」

「今、それを思えてるなら」


 高木さんはレジ台の角に手を置いたまま、静かに息を吐いた。


 疲れている。

 限界も近い。

 それでも、さっきまでの“何もかも無理”の顔ではない。


 怖さは消えていない。


 だが、怖さの中に意味ができている。


 それなら前へ進める。


「明日、また崩れますよ」


 俺が言う。


「やっぱりですか」


「はい」


「容赦ないなあ」


「前夜に整ってる店ほど、朝に崩れます」


「もう聞きたくないです、それ」


「でも本当なんで」


 高木さんは苦笑した。


「じゃあ、その時はまた怒られますね」


「怒らないです」


「ほんとですか」


「たぶん」


「たぶん、って」


 そのやり取りで、また少しだけ空気が軽くなる。


 こういう小さい会話が入ると、人はまだ立てる。


 店内をもう一度見回す。


 棚はだいぶ埋まった。

 値札もほぼ揃っている。

 レジまわりも最低限の形はできた。


 見た目だけなら、もう明日開いてもおかしくない。


 だが、それでも分かっている。


 明日、ここに人が入る。

 客が来る。

 質問が飛ぶ。

 商品が動く。

 人が迷う。


 その時に初めて、本当に始まる。


「じゃあ、今日はここで切ります」


 俺が言う。


「まだやった方がいいこと、あります?」


「あります」


「あるんですか」


「でも今やるより、明日やった方がいいです」


 高木さんは数秒黙って、それから頷いた。


「分かりました」


 その返事は、前よりずっと素直だった。


 全部やろうとしない。

 今日は切る。

 明日に回す。


 それだけでも、この人には十分進歩だった。


 店を出る前に、高木さんがもう一度だけ中を振り返る。


 その横顔は疲れていた。

 でも、最初の頃の“夢だけで来た人”の顔ではない。


 明日の怖さを知っている顔だった。


 それでいい。


 怖さを知った上で立つ人間の方が、まだ店を回せる。


 鍵を閉める。


 シャッターの前で、高木さんが小さく言った。


「……ありがとうございます」


「まだ早いです」


「そう言うと思いました」


「明日からが本番です」


「はい」


 高木さんは、今度は苦笑ではなく、ちゃんと頷いた。


 その返事があれば十分だ。


 前夜に必要なのは、勢いじゃない。


 理屈でもない。


 明日を怖いと思いながら、それでも来る覚悟だ。


 今夜、高木さんはそこまで来た。


 それだけで、この前夜は悪くなかった。

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