第22.5話 朝
第22.5話 朝
キッチンには、香織が立っていた。
炊飯器はもう炊き上がっていて、蓋の隙間から白い湯気が立っている。
コンロの上では味噌汁が静かに温められ、グリルの中では鮭が焼ける匂いを広げていた。
朝だった。
ちゃんと、いつもの朝みたいに朝だった。
それが慎也には、少しだけ信じがたかった。
千尋の部屋のドアが開く。
先に出てきたのは千尋だった。
そのすぐ後ろに、慎也も続く。
香織は振り返った。
そして、慎也の顔を見ると、
「おはよう」
と笑顔を向けた。
慎也は一度、目をそらした。
反射だった。
でも、そのままでいるわけにもいかなくて、気を取り直すように香織の顔を見る。
「……おはよう」
自分の声が少しぎこちないのが分かった。
千尋はもう出勤の支度を済ませていた。
化粧もしていて、髪も整っている。
昨夜の空気が、まるでそのまま残っているようでいて、
千尋のその姿はもうすっかり朝の人だった。
「香織、おはよう」
「わぁ、朝食だ! 嬉しい」
千尋はそう言って、自然に食器の準備を始めた。
その手つきも、もう泊まりに来た人のものではなかった。
慎也はそこに少しだけ立ち尽くしてから、
「着替えてくる」
とも言わずに、自室へ入った。
逃げたわけじゃない。
でも、少しだけ距離が欲しかった。
ドアを閉めると、やっと息がつけた気がした。
鏡の前でネクタイを手に取る。
ワイシャツの袖を通す。
いつもの朝の動作なのに、今日は一つ一つが妙に意識される。
さっきまで千尋の部屋にいた。
それなのに今、自分は自分の部屋で着替えている。
その当たり前が、まだ当たり前として馴染まない。
洗面所へ行き、髭を剃る。
顔に泡をつけたまま、キッチンの方から聞こえる声をぼんやり聞いていた。
「卵かけするなら、自分でね」
香織の声。
「はーい」
千尋の返事。
冷蔵庫のドアが開く音がする。
「香織は?」
「私はいい」
そのやり取りが、妙に自然だった。
慎也は泡を流しながら、
この家の朝は、もう三人分で動いているのだとあらためて思う。
「慎也、卵どうする?」
香織の声が飛んできた。
慎也は洗面所から答える。
「僕、欲しい」
「はいはい」
その返事も、いつも通りみたいだった。
慎也はタオルで顔を拭きながら、キッチンへ戻った。
香織は鮭を皿に移している。
千尋は食卓の向こうで、卵を小鉢に割っていた。
慎也は何も言わずにコーヒーメーカーをセットする。
豆の匂いが立つ。
千尋が振り返る。
「コーヒーどうする?」
慎也ではなく、香織に聞いたのかと思ったら、
香織が先に答えるよりも早く千尋が続けた。
「私、いらない。ミルクがいい」
「了解」
香織はそう言いながら、三枚の皿に焼き鮭を乗せて食卓に並べた。
それから三つの茶碗にご飯を盛る。
三つのお椀に味噌汁をよそう。
カップには、それぞれ違うものが入っていく。
慎也にはコーヒー。
千尋にはミルク。
香織は冷蔵庫から出した冷えた麦茶。
三人分。
また、その数だった。
昨夜のあとでも、その数は変わらない。
むしろ、変わらないまま朝が来てしまったことの方が、慎也には少し怖かった。
三人は食卓についた。
改めて顔を見合わせる。
慎也は何を言えばいいのか少し迷ったが、
結局、千尋とほとんど同時に香織へ向かって言った。
「いただきます」
「いただきます」
香織はちょっと笑って、
「召し上がれ」
と言った。
その言い方が、少しだけおかしかった。
でも、その少しだけおかしい感じが、今のこの家にはちょうどよかった。
食べる時間は、ほんの十分弱だった。
慎也はあまり喋らなかった。
千尋も、昨夜のことには触れなかった。
香織も同じだった。
でも、沈黙ばかりでもなかった。
「鮭、ちょうどいいね」
と千尋が言えば、
「よかった」
と香織が返す。
慎也は味噌汁をすすりながら、そのやり取りを聞いていた。
変だ。
昨夜のあとなんだから、もっと何かが壊れていてもおかしくない。
気まずくてもいい。
目を合わせられなくてもいい。
なのに、そうはならない。
壊れない。
壊れないまま、朝ごはんが進んでいく。
それが、この家の一番変なところなのかもしれなかった。
慎也は食べ終わると、少し離れた感じで立ち上がった。
食器をシンクに置く。
軽く水で流す。
その動作は、ほとんど無意識だった。
香織が千尋に言う。
「食器は軽くすすいで、シンクに置いておいて。あとで私が洗うから」
「わかった」
千尋も慎也に倣って、食器を軽くすすいで置いた。
その流れまで揃っているのが、妙に可笑しくて、でも笑えなかった。
慎也は鞄を持つ。
千尋も上着を手に取る。
二人そろって玄関へ向かった。
香織がそこまで来て、二人を見送る。
「行ってきます」
慎也が言う。
「行ってきます」
千尋も言う。
「いってらっしゃい」
香織はそう返した。
その声は、昨日までと同じようでいて、昨日までとは違っていた。
慎也がドアを開ける。
外には、晴れた青空が広がっていた。
明るすぎるくらいの朝だった。
慎也は一歩外へ出て、それから少しだけ振り返る。
香織は玄関の中に立っている。
千尋はその隣ではなく、少し前に出て靴を履いている。
位置関係まで、もう変わっていた。
ドアが閉まる。
その音は昨夜の終わりではなく、
もう次の日の始まりの音だった。




