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サイショードーキョ(妻妾同居) 〜妻と元カノと三人で暮らしたら、家族が増えていった話〜  作者: カトーSOS


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第22.4話 足りなかった

挿絵(By みてみん)



第22.4話 足りなかった


 香織は目を覚ました。


 何時だろう。


 スマホの画面をつけると、二時を回っていた。


「……トイレ」


 香織は、あえて口にした。


 千尋が正式に住むということで、少し浮かれてしまったのだ。

 いつもは飲まないビールにまで、口をつけていた。


 布団から出ると、足元が少しひんやりした。


 寝ぼけた頭のまま廊下へ出る。

 家の中は静かだった。


 当たり前だ。

 夜中の二時だ。


 静かなはずなのに、その静けさが今夜だけは少し違って感じる。


 トイレを済ませて、香織はそのままキッチンへ向かった。


 喉が渇いていた。


 冷蔵庫を開ける。

 中の灯りが、暗いキッチンをぼんやり照らす。


 香織はトマトジュースを取り出した。


 グラスに注ぐ。


 赤い液体が、静かな音を立てて溜まっていく。


 それを持って椅子に座ったときだった。


 千尋の部屋の方から、声がした。


 別に聞こうとしたわけじゃない。

 ただ、漏れてきただけだ。


 ほんの少し。

 でも、十分だった。


 ――ああ。


 香織は、それが何の声かすぐに分かった。


 分かった瞬間、胸の奥がひゅっと縮む。


 グラスの中の赤い液体を、一気に喉へ流し込んだ。


 冷たい。


 でも、頭は少しも冷えなかった。


 耳を塞ぐこともできた。


 自分の部屋へ戻って、布団を頭からかぶることもできた。


 でも、しなかった。


 聞こうとしたわけではない。

 盗み聞きしたいわけでもない。


 ただ、そこにある現実から目をそらさなかっただけだ。


 いや、目をそらせなかったと言った方が正しいのかもしれない。


 この夜は、自分が決めた夜でもある。


 慎也を送り出したのは自分だ。

 千尋をここへ迎え入れたのも自分だ。


 だから今さら、知らないふりもできない。


 香織は静かに立ち上がった。


 足音を立てないように、自室へ戻る。


 ドアを閉める音すら、少し気をつかった。


 ベッドに腰を下ろす。


 そのまま、布団を抱きしめた。


 そこで初めて、涙があふれた。


 分かっていた。


 覚悟しているつもりだった。


 こうなることも、

 今夜がそういう夜になることも、

 頭では、ずっと前から分かっていた。


 慎也が千尋の部屋へ行く。


 千尋がそれを受け入れる。


 そのことを香織自身が決めた。


 決めたはずだった。


 でも、足りなかった。


 覚悟しているつもりと、

 実際にその夜が来ることは、

 全然違った。


 布団を抱きしめる腕に、少しだけ力が入る。


 さっきまで、自分の腕の中にいた慎也。


 「怖いかも」と言っていた慎也。


 それを抱きしめて、

 大丈夫だと言って、

 送り出したのは自分だ。


 その全部は本当だ。


 嘘じゃない。


 慎也を愛しているのも本当。

 千尋を大切に思っているのも本当。

 この形なら三人でいけると考えたのも本当。


 どれも嘘じゃない。


 なのに、胸の奥はこんなにも苦しい。


 涙が止まらない。


 香織は自分の唇を噛んだ。


 声を出したくなかった。


 こんな夜に、自分だけが泣き声を立てるのは違う気がした。


 違う、というより、そうしたくなかった。


 泣いていることすら、

 できるだけ静かにしていたかった。


 慎也は、もう私だけの慎也ではない。


 その認識が、ようやく身体に落ちてきた。


 頭では分かっていた。

 何度も考えた。

 その上で決めた。


 でも、身体はまだ知らなかったのだ。


 知識として知っていることと、

 現実として知ることは違う。


 今夜、その違いを思い知らされた。


 香織は顔を伏せた。


 自分で決めたことなのに、と思う。


 自分で決めたことだからこそ、と思う。


 どちらの気持ちもあった。


 もし誰かに押しつけられたのなら、

 もっと簡単に怒れたのかもしれない。


 でも、違う。


 この形を選んだのは自分でもある。


 だから、怒りにはならない。


 ただ、痛い。


 静かに、深く、痛い。


 香織は涙をぬぐった。


 ぬぐっても、また溢れてくる。


 止めようとしても、

 涙はどうしても止まらなかった。


 それでも、やめようとは思わなかった。


 そのことだけは、不思議なくらいはっきりしていた。


 苦しい。


 苦しいけれど、ここでなかったことにはしない。


 今夜が来たことも、

 慎也が千尋の部屋にいることも、

 自分が傷ついていることも、

 全部そのまま引き受けるしかない。


 それが、この共同体を作るということなのだと、

 香織はようやく思い始めていた。


 痛みがあるから、間違いだとは思わない。


 痛みがあるから、軽い遊びじゃないと分かる。


 むしろ、痛みがあるからこそ、

 これは本当に生き方を選ぶ話なのだと思う。


 香織は布団を抱きしめたまま、しばらく動かなかった。


 静かな部屋の中で、

 自分の浅い呼吸だけが聞こえる。


 たぶん明日の朝になれば、

 何でもない顔をするのだろう。


 朝ごはんのことを考えて、

 洗面所の順番を考えて、

 千尋に「眠れた?」と聞くかもしれない。


 慎也には、少し困った顔で「おはよう」と言うのかもしれない。


 そういう朝が来る。


 来てしまう。


 でも、それでいいのだと思う。


 いや、まだ「いい」と言い切るのは早い。


 でも、少なくとも、やめない。


 香織は涙で濡れた頬を布団に押しつけた。


 提案したのは自分だ。


 理解しているつもりだったのも自分だ。


 それでも足りなかった。


 その事実だけは、もうごまかせなかった。


 香織は目を閉じた。


 涙はまだ止まらない。


 でも、この夜を越えた先でも、

 自分はきっと、この共同体をやめない。


 そんな確信だけが、

 泣きながらでも、胸の底に残っていた。




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