第2話 3LDK
玄関を入ってすぐ、空気が少し変わった。
人の住んでいない部屋には独特の匂いがある。新品のようでもなく、古びてもいない、どこか乾いた匂いだ。担当者が先に立ってスリッパを揃え、どうぞと言う。僕と香織はそれを借りて中へ入った。
「まずこちらがリビングになります」
廊下を抜けると、ぱっと視界が開けた。
「おお」
思わず声が出た。
南向きなのだろう。掃き出し窓の向こうからやわらかい光が入って、床の木目がきれいに見えた。広さも十分ある。ソファを置いて、テレビ台を置いて、それでもまだ余裕がありそうだった。
「広いな」
僕が言うと、香織も部屋を見渡して頷いた。
「うん。使いやすそう」
僕は窓の方へ歩いていって、外を見た。ベランダの向こうに、低めの建物がいくつか並んでいる。駅前ほどのごちゃごちゃした感じはなくて、生活する場所としては落ち着いていた。
「日当たりもいいですね」
担当者が言う。
「午後にご案内してこれですので、昼間はかなり明るいと思います」
「いいですねえ」
僕は素直にそう思った。やっぱり部屋は、図面で見るより実際に立ってみた方が分かる。数字で見るより、ここで暮らす姿を想像できるかどうかの方が大事だ。
後ろで香織がキッチンの方へ歩いていく。僕もそちらへ向かった。
「キッチンも、わりと広いですね」
担当者が引き出しを少し開けて見せる。
「収納もこのくらいありますし、食器棚を置くスペースも十分取れます」
「ほんとだ。広いね」
香織が言った。
「収納多いのは助かるかも」
「料理しやすそうだね」
僕がそう言うと、香織は少し笑った。
「あなたは食べる専門だけどね」
「失礼な。皿くらい洗うよ」
「くらい、って言った」
「じゃあゴミも出す」
「レベルが低いなあ」
担当者が営業用の笑顔のまま、少しだけ困ったように笑った。僕もつられて笑う。こういう軽いやりとりがあると、いかにも新居見学らしいなと思う。
キッチンからリビングを見渡すと、たしかに悪くない。料理しながらでも部屋全体が見えるし、動きやすそうだった。香織もそのあたりを見ているのか、何歩か動いて、カウンターからリビングを眺めている。
「では、洋室もご案内しますね」
担当者に促されて、僕たちはまた廊下へ出た。
一つ目の部屋は、リビングにいちばん近い洋室だった。広さはそこそこある。寝室にするならちょうどいいかもしれない。
「ここが寝室かな」
僕が言うと、香織はあっさり頷いた。
「うん、それでいいと思う」
担当者もすぐに乗る。
「主寝室として使われる方が多いですね。ベッドも十分入ります」
なるほど、と僕は部屋を見回した。窓の位置も悪くないし、クローゼットもついている。生活を始めるには申し分ない。
二つ目の洋室は、少しだけ小さかった。
「ここは……書斎とかかな」
僕が言う。
「もう一部屋あれば、仕事部屋にもできるし」
香織は軽く頷いた。
「そうだね」
今の僕たちはまだ二人暮らしだし、部屋が一つ余るなら、それはそれで使い道はある。僕の仕事は持ち帰りがゼロではないし、家で少し作業できる部屋があれば助かる。そう考えると、たしかに悪くない。
けれど三つ目の部屋を見たとき、僕は少しだけ首をかしげた。
広さとしては、二つ目とそう変わらない。窓もあるし、普通の洋室だ。物件として見れば、もちろん部屋が多いに越したことはない。だけど現実に住むとなると、やっぱり少し広い気がする。
僕は半分ひとりごとのつもりで言った。
「二人で住むには、ちょっと広くない?」
担当者はすぐには口を挟まず、営業の顔でにこにこしていた。香織が先に答える。
「でも、こういうのって広い方が後で楽じゃない?」
「後でって?」
「子どもできたときとか。荷物も増えるし」
「ああ、まあ、それはそうか」
それはたしかにそうだった。今すぐどうこうという話ではないにしても、結婚して家を買う以上、将来のことを考えるのは自然だ。今ちょうどよくても、あとで手狭になるよりは、最初から余裕がある方がいい。
僕は部屋の真ん中あたりに立って、もう一度見回した。
「でも、3LDKか」
なんとなく言うと、香織は窓際の方へ歩いていって、カーテンレールや壁の幅を見ていた。
「広い方が安心だよ」
「慎重派だねえ」
「そうかな」
「僕は2LDKでも十分かと思ってた」
「あなたは今しか見てないから」
「失礼な」
「事実でしょ」
そう言われると、少し言い返しにくい。僕は笑ってごまかした。
たしかに僕は今の暮らしを基準に考えている。二人で住むなら、このくらいでいいんじゃないか、という発想だ。けれど香織は、結婚したその先まで含めて家を見ているらしい。別に不自然ではない。むしろ家を買う人間としては、その方がちゃんとしているのかもしれない。
担当者が補足するように言った。
「お子さんが生まれたあとも、そのまま長く住めるという意味では、3LDKを選ばれる方は多いですね」
「ですよね」
香織がすぐに答える。
僕はその横顔を見て、なるほどなと思った。香織の中では、こういう見方が最初から自然なのだろう。今の便利さより、後で困らないことの方が大事。そういう考え方だ。
廊下へ戻ると、担当者が浴室や洗面所も一通り説明してくれた。設備は新しくはないが、手入れはされている。極端に古びた感じはないし、暮らすには十分だ。
一巡して、もう一度リビングへ戻る。
窓から入る光が、さっきより少しだけやわらかくなっていた。僕はソファの置き場をなんとなく想像してみる。テレビは壁のあっちか。テーブルはこの辺。寝室はさっきの部屋で、もう一部屋は仕事用。残りの一部屋は、まあ、そのときどきで使えばいい。
そう考えてみると、たしかに広い方がいいのかもしれない。
「どうですか?」
担当者が言った。
「かなり印象いいです」
僕は正直に答えた。
その隣で、香織も静かに頷いていた。
3LDKは広いと思った。でも、結婚したばかりの夫婦が将来を考えて選ぶなら、別におかしな広さでもなかった。




