第1話 内見の日
「慎也、楽しみね。」
香織が立ち止まって、前を見上げた。
僕も足を止める。
目の前には、十一階建てのマンションが立っていた。新築のような華やかさはない。外壁は少しくすんだ明るい色で、植え込みもよく手入れされているが、どこか実用本位だった。築十五年と聞いていたから、たしかにそんな感じだ。古びているわけではないが、ぴかぴかでもない。
「こちらです」
不動産会社の担当者が、インフォシートを手にしたままにこやかに言った。
「駅からは徒歩七分ほどです。周辺も静かで、スーパーとドラッグストアが徒歩圏内にあります」
駅から七分というのは、不動産広告ではたいてい少し盛ってある。そう思いながら歩いてきた僕としては、今回はむしろ正直な方かもしれないと思った。信号にも引っかかったし、途中で香織がショーウィンドウをちらりと見たりもしていたのに、それでもこのくらいだ。通勤を考えても悪くない。
「思ったよりちゃんとしてるね」
香織が言った。
その言い方が妙に現実的で、僕は少し笑った。
「もっとこう、ピカピカの新築を見に行くのかと思ってた」
「うちはそこまで無理しなくていいでしょ」
「現実的だねえ」
「家買うんだから、現実見るのは普通でしょ」
そう言って香織は、もう一度マンションを見上げた。
たしかにその通りだった。結婚して、住む場所を探して、払える範囲で無理のないところを選ぶ。そう考えれば、新築にこだわらないのも自然だ。僕だって、新築でなければ嫌だというほどの夢があるわけではない。ただ、なんとなくそういうものかと思っていただけで。
「管理組合もしっかりしていますし、共用部の清掃も定期的に入っています」
担当者に続いてエントランスへ入ると、たしかに中はきれいだった。郵便受けのあたりも乱れていないし、自転車置き場も雑然としていない。派手さはないが、ちゃんと人が暮らしている場所の整い方をしている。
「修繕積立金って、ここ数年で上がってますか?」
香織が担当者に聞いた。
「はい。三年前に一度見直しがありました。ただ、長期修繕計画に沿った範囲ですね。大規模修繕は二年前に終わっています」
「外壁と防水ですか?」
「ええ、あと共用廊下の照明も入れ替えています」
そこまで見るんだ、と僕は少し感心した。
僕の中では、駅からの距離とか、日当たりとか、部屋の広さとか、そのくらいが優先だった。けれど香織は、もっと先のことまで見ているらしい。結婚してからもそうだけれど、こういうところは昔からわりとしっかりしている。僕がぼんやりしているだけかもしれないけれど。
「管理費と修繕積立金を合わせると、月の負担はこのくらいになります」
担当者が資料を開いて見せてくれる。
香織はふんふんと頷き、僕は横から数字だけを眺めた。正直、まだぴんとこない。暮らす場所というのは、図面や数字よりも、実際に立ったときの空気の方が大事な気がする。
「では、中をご案内します」
担当者がエレベーターへ向かった。
僕たちもそのあとに続く。エレベーターを待つ間、僕は小さく伸びをした。
「ちょっと緊張するな」
「家を見るだけで?」
香織が笑う。
「だって、買うかもしれないんでしょ」
「まだ見るだけだよ」
「香織はもう半分決めてそうだけど」
「それは部屋を見てから」
そう言いながら、香織は少しだけ口元を緩めた。
その顔を見て、まあ、こういう休日も悪くないなと思った。新婚夫婦がマンションを見に来る。文字にすると、どこにでもある話だ。実際、たぶんそうなのだろう。
エレベーターが着いて、僕たちは乗り込んだ。鏡張りの内壁に、僕と香織が並んで映る。こうして見ると、結婚したのだなという実感が少しだけある。恋人同士の頃とは違って、これからは生活を一緒に組み立てていくのだ。そういう意味では、今日ここにいること自体が、いかにもそれらしい。
目的の階で扉が開いた。静かな共用廊下に出る。担当者が先に立ち、角から二つ目の部屋の前で立ち止まった。
「こちらになります」
鍵束の中から一本を選び、錠に差し込む。
金属の回る音がして、扉がゆっくりと開いた。
「では、中をどうぞ」
少なくともそのときの僕は、ただの部屋探しのつもりだった。




