第3話 ここにしようか
一通り部屋を見終わると、担当者はもう一度リビングへ戻って、持っていた資料をテーブル代わりのカウンターに広げた。
「いかがでしょうか。設備や管理状態を含めると、かなり条件のいいお部屋だと思います」
僕はもう一度、リビングを見回した。
窓から入る光は少しだけ傾いて、さっきよりやわらかくなっている。ソファを置くならあの辺で、テレビ台は向こうの壁際か。寝室は最初の洋室で、もう一部屋は僕の作業部屋。三つ目の部屋は、今すぐ使い道が決まっていなくても、将来のことを考えれば無駄にはならない。そう思えるくらいには、僕の中でもこの物件が現実味を帯び始めていた。
「思ったより現実的だな」
僕が言うと、香織が隣で笑った。
「現実的なのが一番いいよ」
「まあ、住むのは現実だしね」
「でしょ」
担当者は営業用の笑顔のまま頷き、資料の一枚を指先で押さえた。
「価格についても、この立地と広さを考えると、かなり抑えられている方です。築年数が十五年という点をどう見るかですが、先ほどご説明した通り、大規模修繕も二年前に入っていますので、管理状態は悪くありません」
価格の欄に目を落とす。
さっきも見た数字だが、部屋を見たあとで改めて見ると少し重みが違った。家賃なら毎月払って終わりだが、これは買う話だ。当然といえば当然だが、桁が現実を連れてくる。
「月々の返済イメージは、このくらいですね」
担当者が別の紙を出してくる。
僕は思わず「う」と小さく声を飲み込んだ。いや、想像よりとんでもなく高いわけではない。ただ、数字として見るとそれなりに緊張する。結婚して、家を買って、返済していく。そういう当たり前の人生設計が、急に具体的な形で目の前へ出てくる。
その横で、香織は案外落ち着いていた。紙の数字を見て、ふんふんと頷いている。月々いくら、管理費と修繕積立金を合わせていくら。そういう話を、もう最初からある程度腹に入れて来ていたような顔だった。
「どうですか?」
担当者が僕たち二人を見た。
僕は正直に答える。
「かなり印象いいです」
「ありがとうございます」
担当者は柔らかく微笑んでから、タイミングを見計らうように言った。
「もし今日すぐに決めるということではなくても、人気の出やすい条件ではありますので、前向きにご検討いただければと思います」
この言い方も営業だなと思う。けれど、あながち大げさでもないのかもしれない。駅から七分、築十五年、三LDK。派手ではないが、生活するにはちょうどいい。変に尖っていないからこそ、欲しい人は欲しいだろう。
「少し、二人で相談してもよろしいですか?」
香織がそう言うと、担当者はすぐに一歩引いた。
「もちろんです。では、廊下の方におりますので、何かあればお声がけください」
そう言ってリビングから出ていく。
部屋の中に僕と香織だけが残った。
少しだけ静かになる。
エアコンの送風音もない部屋は、思っていたより音が少なかった。窓の向こうから、遠くを走る車の気配がかすかに聞こえるくらいだ。
「どうする?」
僕は先に口を開いた。
「かなり本気っぽいけど」
香織は窓の方を一度見て、それから僕へ向き直った。
「うん。いいと思う」
「そんなに?」
「うん。ちゃんと暮らせそうだから」
その言い方は、さっき部屋を見ていたときの香織そのままだった。
ちゃんと暮らせそう。
意味深というほどではない。むしろ家を選ぶ理由としてはとてもまともだ。通勤しやすいこと、部屋数があること、管理状態がいいこと。そういうものを全部ひっくるめての言葉なのだろう。
それでも、香織の口から出ると、その「ちゃんと」が少しだけ強く聞こえる。
「そこまで言うなら、かなり気に入ったんだな」
「うん」
「僕は、まあ、悪くないなって感じ」
「慎重だね」
「だって家だよ?」
「家だからだよ」
香織は笑わずにそう言った。
でも声は強くなかった。ただ、当たり前のことを言うみたいな調子だった。
僕はもう一度、部屋を見回した。
たしかに悪くない。正直に言えば、かなりいい方だ。広さもあるし、駅からも遠すぎない。新築へのこだわりがないなら、十分現実的な選択肢だと思う。三LDKについても、少し広いかなと思ったが、将来のことを考えればなしではない。子どもができたとき、と香織は言っていた。その説明にも筋は通っている。
「反対する理由は、今のところないかな」
僕がそう言うと、香織の表情が少しだけやわらいだ。
「じゃあ、ここにする?」
言いながら、僕は自分で少し驚いた。ついさっきまで、まだ一件目だし、という気持ちもあったのに、部屋を見て、数字を見て、香織の顔を見ているうちに、だいぶ気持ちは傾いていたらしい。
香織は迷わなかった。
「私は、ここがいい」
はっきりと言った。
その言い方に押しつけがましさはなかった。ただ、自分の意思としてちゃんと決めている、という感じだった。
僕は小さく息を吐く。
「そっか」
「うん」
「じゃあ、前向きに話進める?」
「うん」
短いやりとりだったけれど、それで十分だった。
僕がまだ少し慎重で、香織の方が一歩先に進んでいる。そのくらいの差はある。けれど、向いている方向が違うわけではない。そう思えた。
廊下へ顔を出して担当者を呼ぶと、すぐに戻ってきた。
「ご相談いかがでしたか?」
「かなり前向きに考えています」
僕が答えると、担当者は表情を明るくした。
「ありがとうございます。では、今後のお手続きの流れをご説明しますね」
そこから先は、申し込みのことだとか、必要書類のことだとか、現実的な話が続いた。香織はきちんと聞いていたし、僕も途中からはちゃんとメモを取った。家を買うというのは、もっと感情的な決断かと思っていたけれど、実際にはこうして細かな確認の積み重ねで進んでいくらしい。
説明を聞き終えてマンションを出るころには、日が少し傾いていた。
駅へ向かう道を、僕たちは並んで歩く。
「疲れた?」
香織が聞いた。
「ちょっとだけ」
「でも、見てよかったでしょ」
「うん。思ったよりずっとよかった」
「でしょ」
その「でしょ」には、さっきと同じ少しだけ得意げな響きがあった。
僕は苦笑する。
「最初からかなり気に入ってたもんな」
「うん。だって、ああいうのは見た瞬間にけっこう分かるし」
「僕はまだ、家って見るまで分からないな」
「慎也はそういうとこあるよね」
「悪いこと?」
「別に。慎重でいいんじゃない?」
そう言って香織は前を向いた。
僕もその横顔を見て、まあ、悪くない始まりなのかもしれないと思った。結婚して、新しい住まいを探して、現実的な金額にちょっと緊張して、それでも前へ進もうとしている。そういうのはきっと、特別じゃない。ごく普通のことだ。
帰り道、僕は新しい生活のことを考えていた。




