第21話 始まってしまった
第21話 始まってしまった
騒がしかったわけじゃない。
むしろ静かだった。
でも、静かなまま家の形だけが変わっていた。
夕食は、結局お惣菜になった。
揚げ物とサラダと、適当に選んだ煮物。そんな、特別でも何でもないものを三人でテーブルに並べて、三人で食べた。
それだけのことなのに、やけに落ち着かなかった。
香織は普通に食べていた。
千尋も、遠慮はしつつ、でも住む人の顔で箸を動かしていた。
僕だけが、どのくらい喋ればいいのか分からなかった。
黙りすぎるのも変だし、普通に話すのも変だ。
変じゃない方を選ぼうとして、どっちも変になる。
そんな夕食だった。
食べ終わると、香織が立ち上がる。
「お皿、こっちにちょうだい」
「いや、僕やるよ」
言うと、香織は一瞬だけ僕を見た。
「じゃあお願い」
あっさり引かれる。
それもそれで少し拍子抜けした。
千尋が自分の分の皿を持って立ち上がる。
「私も手伝う」
「いいよ」
「今日はまだ、どこに何があるか分からないでしょ」
香織がそう言うと、千尋は少し迷ってから頷いた。
「じゃあ、拭く方やる」
その自然さが、また妙に落ち着かなかった。
洗い物をしている間、後ろで二人が何か話している。
何を話しているのかまでは聞き取れない。
でも、途切れない。
そこに僕が入る余地があるのか、ないのか、それすらよく分からなかった。
水を止めて振り向くと、リビングはもう少しだけ片づいていた。
食器は三人分だった。
コップも三人分だった。
椅子も三つ使われた。
たったそれだけのことなのに、
いつもの家が、いつもの家ではなくなっている。
千尋が立ち上がった。
「……お先に、お風呂借りるね」
「うん、どうぞ」
香織が普通に返す。
僕はそのやり取りを黙って見ていた。
借りる、という言い方なのに、
もう借りている人の動きではなかった。
ここに住む人の動きだった。
千尋は洗面所の方へ消える。
その後ろ姿を見送ってから、僕はようやく息を吐いた。
香織がソファに腰を下ろす。
「疲れた?」
「疲れたというか……」
「なんか」
「うん」
「自分の家なのに、落ち着かないんだけど」
言うと、香織は少しだけ笑った。
「そりゃ初日だもん」
「私だって少し変な感じするよ」
「そう見えないけど」
「ちょっと嬉しいからね」
その答えが、香織らしかった。
隠そうとしない。
でも、浮かれているわけでもない。
ちゃんと嬉しいのだ。
形になったことが。
「だって、形になったから」
「やっと、ね」
「やっと、って」
「ずっと考えてたから」
その言い方は静かだった。
思いつきでここまで来たわけではない。
時間をかけて、何度も考えて、ここまで運んできた。
そういう人の声だった。
僕は返す言葉を失う。
分かっていたことではある。
でも、あらためて聞くと重い。
香織にとって今日という日は、
変なことが始まる日じゃない。
考えていた生活が、やっと形になる日なのだ。
それが、少し怖かった。
風呂場の水の音が聞こえる。
家の中に、いつもより一つ多い気配がある。
音としては小さい。
でも、存在としては大きかった。
「……変だよな」
僕がぼそっと言うと、香織は首を傾げる。
「何が?」
「全部」
「うん」
「変だと思うよ」
あっさり認められて、逆に困る。
普通じゃないことは、もう本人も分かっている。
そのうえで進めている。
だからこそ、話がどこにも逃げない。
しばらくすると、風呂場の音が止んだ。
少しして、千尋が戻ってくる。
髪を軽くタオルで拭きながら、リビングの入口で立ち止まった。
「……まだ、私がいると変だよね」
小さく笑いながら言う。
僕は少し考えてから答えた。
「変だよ」
「かなり変」
「だよね」
千尋は笑った。
香織も笑う。
僕だけが、うまく笑いきれなかった。
でも、そのやり取りができてしまうこと自体が、また不思議だった。
もっと大ごとになると思っていた。
気まずくて、怒って、揉めて、何かが壊れると思っていた。
でも壊れない。
壊れないまま始まる方が、よほど怖かった。
千尋は自分の部屋へ戻る前に、少しだけ立ち止まる。
「……おやすみ」
「おやすみ」
香織が返す。
僕も少し遅れて言う。
「おやすみ」
千尋は小さく頷いて、自分の部屋へ入っていった。
ドアが閉まる。
その音は小さかったのに、やけにくっきり聞こえた。
一つの部屋に、一人が帰った。
当たり前のことのはずなのに、それが決定的に思えた。
もう“泊まりに来た人”じゃない。
住んでいる人だ。
香織も立ち上がる。
「私も先に寝るね」
「うん」
「慎也は?」
「……もう少しここにいる」
「そっか」
香織はそれ以上何も言わなかった。
それがありがたいような、少し寂しいような、変な気分になる。
香織も自分の部屋へ戻っていく。
リビングに一人残される。
静かだった。
でも、昨日までの静けさではない。
三人分の食器が乾かしてあって、
三人分のマグカップがあって、
三人分の生活の気配がもう家の中に残っている。
自分の家なのに、どこにいればいいのか少し分からなかった。
リビングにいても落ち着かない。
自分の部屋に入っても落ち着かない気がする。
それが、いちばん困った。
僕はまだ納得していない。
でも、三人暮らしはもう始まっていた。
始まってしまった、という言い方の方が正しいのかもしれない。




