第20話 三人分
第20話 三人分
部屋が三つ埋まっただけじゃない。
生活の単位そのものが、もう三人分になり始めていた。
そう思い知らされたのは、昼を少し回った頃だった。
千尋の荷物は少なかった。だから、すぐに片づくのだろうと思っていた。いや、片づくというより、置けば終わりだと思っていた。
でも実際には違った。
置くだけでは暮らしにならない。
置いてから、どこに何を置くか、何を分けるか、何を共有するか、そういう細かい話が、延々と続くのだ。
「茶碗、これ千尋の分ね」
「箸も分ける」
香織が当たり前みたいに言う。
「……そんな当たり前みたいに言うなよ」
僕が言うと、香織は平然としていた。
「当たり前になるから準備してるんでしょ」
その言い方に、また言葉が詰まる。
千尋は、新しい茶碗を手に取って、少し考える。
「色、被らない方がいいよね」
「間違えるし」
間違えるし、の問題なのか。
いや、生活って結局そういう問題なのかもしれない。
誰の茶碗か。
誰の箸か。
誰のマグカップか。
三人で住むなんて異常な話のはずなのに、実際に始まるのはそういう小さな現実ばかりだった。
マグカップが三つ。
皿が三人分。
箸も茶碗も三人分。
数が増えるたびに、目の前の現実が少しずつ固まっていく気がした。
香織は食器棚を開けては閉じ、位置を入れ替えている。
千尋も横から口を出す。
「それ、上だと取りにくくない?」
「朝バタバタするでしょ」
「あ、そっか」
「じゃあこっちか」
二人の会話は妙に滑らかだった。
久しぶりに会った親友、という感じではない。昔から一緒に住んでいました、と言われた方がまだ納得できるくらい、呼吸が合っている。
少しは揉めろよ、と思った。
その方が、まだ普通だった。
でも揉めない。
香織が出した案を、千尋が少し直す。
千尋が迷ったところを、香織が決める。
その繰り返しで、生活の配置だけがどんどん決まっていく。
「冷蔵庫どうする?」
「調味料とか牛乳とか卵は共有でいいと思う」
香織が冷蔵庫の前で言う。
千尋は中を覗き込みながら頷いた。
「うん」
「でも、お茶とかヨーグルトとかは分けた方が楽かも」
「細かいな……」
思わずそう言うと、香織が振り返る。
「細かくしないと揉めるの」
「最初が大事」
最初が大事。
そう言われると、また何も返せなくなる。
最初から揉めないように線を引く。
最初から続けるための配置を考える。
それは、どう考えても“暮らす人”の発想だった。
僕だけが、まだそこまで行けていない。
洗面所に移ると、今度はタオルや洗剤の話になった。
「タオルは色で分けた方が分かりやすいかな」
「洗剤は共有でいいか」
「共有ばっかり増えるな……」
僕がぼそっと言うと、香織は何でもない顔で言った。
「共有する方が楽なものは共有した方がいいでしょ」
その通りなのだろう。
その通りなのだろうけど、楽な方へ、合理的な方へ、自然に流れていくのが妙に落ち着かない。
そして、問題の洗濯かごである。
「洗濯かご、どうする?」
洗面所の前で、香織が振り返った。
僕は少し考えてから言った。
「……二つでいいんじゃないか」
「今まで一つだったし」
「一つだとさすがに回らないでしょ」
「色々混ざるし」
「だから分けるんだよ」
「二つあればいいだろ」
香織は少し首を傾げる。
千尋はその言葉に反応した。
「……二つ?」
「僕ら夫婦で一つ」
「千尋が一つ」
一瞬、空気が止まる。
千尋は少しだけ考えてから、肩をすくめた。
「私は、別に同じでいいけど」
「は?」
思わず変な声が出た。
「どうせ、そのうち混ざるし」
「分けても意味ない気がする」
「意味はあるだろ……」
「ある?」
千尋は本当に分からない、という顔で少し首を傾げる。
責めているわけではなかった。
純粋に疑問として言っている顔だった。
「香織が嫌じゃなかったら、私は一緒でいいよ」
視線が香織に向く。
香織は、少しだけ笑った。
「私はいいよ」
「どうせ、もともと慎也のと同じだし」
「……は?」
そこで僕は反射的に言っていた。
「ちょっと、待って」
香織が吹き出す。
「もーっ! ちょっと待ってばっかだね」
「慎也はチョットマッタ星人だね」
千尋も吹き出した。
香織も、自分で言って笑っている。
僕だけが笑えなかった。
「星人にするなよ……」
「……ふふっ」
「でも、ちょっと分かるかも」
「分かるな」
「だって本当に、ずっと待ってって言ってるじゃん」
「待つだろ」
「待たない方がおかしいだろ、こんなの」
「ほら、また出た」
香織は何事もなかったように、今まで使っていた洗濯かごをそのまま置いた。
そこに、千尋の荷物が自然に重なる。
二つに分けるつもりだった。
それで境界が引けると思っていた。
でも、二人は最初からその境界を気にしていなかった。
たったそれだけのことなのに、
線が一本、消えた気がした。
洗面所から戻ると、次は収納の続きになった。
「それ、そこ置く?」
「ううん、こっちの方が使いやすいと思う」
「朝混むでしょ」
「あ、そっか」
「じゃあそっちで」
早い。
千尋は遠慮がちではあるけれど、手が早かった。
何かを勝手に決めるわけではない。でも、使いやすさの判断が的確で、香織と喧嘩もしない。
むしろ補完している。
そのことが、また少し気味悪かった。
共同生活なんて、もっとぎこちなくなるものじゃないのか。
少なくとも初日は、もう少し空回りするものじゃないのか。
でも二人は、やけに自然に前へ進んでいく。
遠慮しながら。
でも止まらずに。
夕方になると、今度は夜の話になった。
「夜どうする?」
「何か買ってくる?」
香織が冷蔵庫を閉めながら聞く。
千尋は少し考える。
「作るほどではないかな」
「でも外行くと疲れるかも」
「じゃあ、お惣菜買って家で食べよっか」
「……普通だな」
口から出たのは、そんな言葉だった。
香織が笑う。
「暮らしって普通の積み重ねだよ」
普通。
その単語が、今日ほど変に聞こえたことはなかった。
三人で住む。
元カノがいる。
妻が主導している。
僕だけがついていけていない。
どこが普通なんだと思う。
でも実際に目の前で起きているのは、
茶碗を分ける話で、
冷蔵庫をどう使うかで、
洗濯かごを一つにするかで、
夜は惣菜を買うかどうかの相談だった。
そういう普通の積み重ねの中に、
異常な話がそのまま入り込んでいる。
気持ち悪い。
でも、妙に現実的だった。
気がつけば、部屋は三つ埋まり、
食器は三人分になり、
タオルも置き場が決まり、
冷蔵庫も共有ルールが決まり、
洗濯かごには境界線が引かれなかった。
全部が整い始めていた。
僕は立ったまま、その様子を見ていた。
部屋が三つ埋まっただけじゃない。
生活の単位そのものが、もう三人分になり始めていた。




