第19話 入居
第19話 入居
反対しきれないまま、その日だけが来た。
そういうのが一番嫌だった。
日曜日の朝だというのに、僕はまるで月曜の出勤前みたいな気分でリビングにいた。落ち着かない。何かしなければいけない気もするし、何もしない方がいい気もする。そうやって中途半端に座っている自分が、一番邪魔なのも分かっていた。
今日は千尋が正式に入る日だった。
正式に、という言い方も変だ。
もう一度考えても変だし、三度考えても変だった。
引っ越し初日の時点で、千尋はもうこの家にいた。玄関に知らない靴が増え、マグカップが三つ並び、僕が帰ってくると「おかえりなさい」と言った。その日は、「千尋の部屋」に泊まっていった。あの時点で十分に異常だった。けれど、あれはまだ“いる”という衝撃だったのだと思う。
今日は違う。
今日は、“住む”日だった。
その違いが、僕にはやけに重かった。
インターホンが鳴った。
心臓が一つ余計に打つ。
僕は立ち上がりかけて、やめた。出るべきなのか、出ない方がいいのか、考えた瞬間に分からなくなったからだ。
結局、香織が何でもない顔で立ち上がった。
「はーい」
その声が妙に軽くて、僕は少しだけ腹が立つ。
軽く済む話じゃないだろう、と思う。
けれど香織にとっては、これは“始まる日”であって、“壊れる日”ではないのだろう。だからあんな声が出る。
玄関の方から、控えめな声が聞こえた。
「……おはよう」
千尋だ。
当たり前なのに、その声だけで少し背中が固くなる。
香織が明るく返す。
「おはよう。いらっしゃい」
その“いらっしゃい”は、客に向ける声にも聞こえるし、帰ってきた人に向ける声にも聞こえた。どちらにしても、もうこの家に千尋を迎え入れる声であることだけは確かだった。
僕はリビングから玄関の方を見た。
千尋は大荷物というほどのものは持っていなかった。キャリーケースが一つ。肩にかけたバッグが一つ。小さめの段ボールが二つほど。そんなものだった。
少ない。
拍子抜けするくらい、少なかった。
「……少ないな」
思わずそう言うと、千尋は少しだけ困ったように笑った。
「海外にいたから、日本にそんなに物がないの」
「着替えとか、そのくらい」
「そのくらい、って」
僕は言いながら、かえって変な気分になる。
もっと大荷物で、もっと引っ越しらしく、もっと“住む”感じがあるものだと思っていた。なのに実際に目の前にあるのは、仮住まいの開始にも見えなくはない程度の荷物だった。
でも、千尋の口調には仮住まいの軽さがなかった。
着替えとか、そのくらい。
そう言いながら、もうここに置くつもりで持ってきている。その感じがある。
荷物が少ないせいで、むしろ現実感が薄い。
でも、千尋の声だけはちゃんと現実だった。
香織はそのまま玄関先で立ち話を続けるでもなく、さっさとキャリーケースの取っ手を持った。
「ほら、こっち。千尋の部屋」
「一応、最低限は入れてあるけど、足りないものあったら言って」
僕は思わず顔を上げた。
「……一応、って」
香織は振り返らずに言う。
「カーテンと寝具と棚くらい」
「ないと困るでしょ」
ないと困る。
それはそうだ。
そうなのだが、その“そうだよね”が積み重なること自体が困るのだ。
千尋が正式に住む前提で、カーテンも寝具も棚も用意されている。
僕の知らないところで。
いや、知らないところでという言い方も変かもしれない。聞かされてはいたのだ。あの日、制度として、部屋も金も夜のルールも全部説明された。僕が飲み込めていないだけで、二人の中ではずっと前から決まっている。
そう分かっていても、実物を見るとまた違った。
部屋は三つある。
そのうち一つが千尋の部屋になる。
言葉で聞くのと、実際にその部屋へ千尋の荷物が運ばれていくのを見るのとでは、重さが違う。
千尋の部屋のドアが開く。
空室ではなかった。
香織の言う通り、最低限のものはもう揃っていた。カーテンがつき、ベッドには寝具が整えられ、収納棚も置いてある。余計な飾りはない。でも、「人が今日から暮らせる部屋」にはなっていた。
僕はしばらく、その部屋を見ていた。
千尋の部屋と言われて、勝手に見るのもいけないかと思わず遠慮していたのだ。
自分の知らないところで、部屋が一つ完成していた。
その事実が、何より嫌だった。
「……ありがとう」
「十分だよ」
千尋が静かにそう言った。
十分なのか。
十分なんだろう。
僕だけが、まだ何も十分じゃなかった。
香織は軽く頷く。
「よかった」
「あとで足りないの分かったら、買いに行こう」
その会話があまりに自然で、僕はそこに混ざれなかった。
混ざれないというより、どこから口を挟めばいいのか分からなかった。
止めるのか。
手伝うのか。
黙っているのか。
どれを選んでも、自分だけ少し遅れている感じがする。
結局、いちばん無難そうなことを言った。
「何か、運ぶものある?」
言ってから、自分でも薄いなと思った。
でも千尋はすぐに首を振る。
「大丈夫」
「重いの、ほとんどないから」
香織が横から言う。
「慎也は突っ立ってないで、座ってて。お茶は出すから。」
「なんで僕が客みたいな扱いなんだよ」
反射的にそう返すと、香織はようやくこっちを見て笑った。
「だって今、一番どうしていいか分かってない顔してるし」
「してるけど」
「じゃあお茶だして。」
「認めたら雑用になるのかよ」
千尋が小さく笑った。
その笑い声に、僕の肩がまた少し固くなる。
気まずさがゼロではない。けれど、笑いが出るくらいには、二人はこの状況に馴染んでいる。馴染んでいる、という言い方が嫌なら、覚悟ができている、と言ってもいい。
僕だけが、そこに追いついていない。
キッチンへ向かいながら、僕は後ろで続く会話を聞いていた。
「この棚、窓側の方がいいかな」
「うん、その方が動線は楽かも」
「じゃあ、ちょっと寄せるね」
軽い。
いや、軽いわけじゃないのかもしれない。ただ、実務の話になった途端に二人の声が自然になるのだ。
動線。
置き場。
足りないもの。
買い足すもの。
そういう話は、感情より先に動いていく。
お茶を三人分用意しながら、僕は変なことを考えていた。
三人分だ。
それだけで、もう数が変わっている。
マグカップが三つ。
部屋が三つ。
人間が三人。
当たり前の算数なのに、妙に重い。
テーブルに湯気の立つカップを並べると、香織が「ありがと」と言い、千尋も「ありがとう」と言った。
僕は「どうも」とも「いいよ」とも返せず、曖昧に頷くだけだった。
千尋の荷物は少ない。
でも、その荷物が部屋に入っただけで、家の中の意味が急に増えた気がした。
キャリーケース一つで済むような引っ越しなのに、空間の意味だけは大げさなくらい変わっている。
住む人が一人増えた。
ただそれだけのはずなのに、僕の家はさっきまでの家ではなくなっていた。
千尋はまだ遠慮している。
でも引き返す気配はない。
香織は妙に嬉しそうだ。
でも浮かれているわけではない。
そして僕だけが、どこにも立ち位置が決まっていないような気分だった。
荷物は少ないのに、家の中の意味だけが急に増えた。




