第16話 四万五千円
第16話 四万五千円
リビングの空気は、まだ変わらず重かった。
三人で暮らす。
それだけでも十分おかしいのに、部屋割りの話まで妙に筋が通っていたせいで、逆に逃げ場がなくなっていた。感情論なら、感情で拒否できる。けれど、間取りの話をされると現実がある。三部屋あることも、全員に個室を割り当てられることも、部屋を離して配置すれば気配を薄くできることも、全部本当のことだった。
僕はまだ何も納得していない。
それなのに、話だけが先へ進む。
香織は、僕が黙り込んだのを区切りと見るみたいに、次の話題へ移った。
「あと、千尋には住む分の負担をしてもらうつもり」
負担。
その単語が、僕の頭の中に少し遅れて届く。
「負担?」
「家賃っていうか、ローンの分担」
僕は香織の顔を見た。
さらっと言うな、と思った。
今の話、さらっと出していい話じゃないだろう。三人で住むというおかしな提案の中に、さらに金の話まで最初から入っている。感情の整理も追いついていないのに、家計の話が出てくる。
でも香織にとっては、その順番は自然なのだろう。
暮らすなら、金がかかる。
だからその話をする。
それだけだ。
千尋が口を開いた。
「この家は慎也と香織の家だから」
僕はそちらを見る。
千尋は、前のめりではない。でも、逃げてもいない。
「私は、ただ入れてもらうつもりはない」
「四万五千円払うつもりでいる」
「四万五千円?」
思わず聞き返す。
その数字だけが、妙にくっきり聞こえた。
四万五千円。
意味はまだ分からないのに、数字だけは分かる。
八万円のローン。
そのうち四万五千円。
そこまで頭に浮かんだ瞬間、僕は自分でも嫌になる。
「いや、待ってくれ。意味が分からない」
本当にそうだった。
意味は分からないのに、数字だけは分かる。
八万円のローン。
そのうち四万五千円。
「……そりゃ、八万円のうち四万五千円払ってくれれば助かるよ」
口に出してから、僕は自分で自分を疑った。
何を先に計算してるんだ。
そこじゃないだろう。
今はまず、三人で住むという話自体を拒否する場面じゃないのか。
なのに僕は、真っ先にローンの計算をしてしまった。
香織が、短く言う。
「でしょ」
勝ち誇るでもなく、本当にただ確認するみたいに。
それがまた腹が立つ。
いや、腹が立つというより、言い返しにくい。
だって、助かるものは助かる。
それは本当だからだ。
毎月八万円。
それを二人で回すのと、そこに四万五千円入るのとでは、話が違う。
単純に、かなり違う。
僕は息を吐いた。
「……いや」
「だから、そういうことじゃないんだけど」
でも、そういうことでもある。
その感覚が一番嫌だった。
千尋は続ける。
「もちろん生活費は別」
「食費、光熱費、マンションの管理費、修繕積立金、固定資産税の一部も、相応に負担するつもり」
僕は黙ってしまった。
そこまで言われると、もう軽い同居の話ではなかった。
実は僕は、今までずっと賃貸生活だった。
だから、マンションの管理費とか、修繕積立金とか、固定資産税とか、そういうものが頭から抜け落ちていた。
いや、抜け落ちていたというより、実感がなかった。
今回、購入にあたって重要事項の説明を受けて、初めて強く意識したのだ。
ローンを払えば終わりじゃない。
管理費もいる。
修繕積立金もいる。
固定資産税もある。
そのときは正直、
ローンと別かよ、と思った。
だからこそ、千尋の言葉は重かった。
四万五千円が入るだけでも助かる。
それに加えて、生活費の一部まで負担するという。
食費も、光熱費も、管理費も、修繕積立金も、固定資産税の一部も。
三人で暮らすなんておかしい。
そう思っている。
なのに、金の話だけ聞いていると、妙に現実的だった。
むしろ、現実的すぎて困るくらいだった。
千尋は静かに続ける。
「生活費を全部一緒にするつもりはない」
「でも、住む以上は、ちゃんと払う」
「その方が私も気が楽だから」
寄生するつもりではない。
言葉にしなくても、そういう意味だと分かる。
この家は僕と香織の家だ。そこに千尋が入るなら、負担をする。その理屈自体はまっとうだった。まっとうすぎて困る。
香織も言う。
「全部を一つにするわけじゃないの」
「でも、共同体としてちゃんと回る形にはしたい」
共同体。
またそういう言葉を使う。
三人で住む。
妻妾同居。
共同体。
出てくる言葉だけ聞くと、何かの実験みたいだった。
でも二人にとっては、そうではないのだろう。
本気で暮らすつもりでいるから、こういう言葉になる。
僕は額を押さえたくなる。
「そんなに現実的な話になってるの?」
それが、正直な感想だった。
おかしい話のはずなのに、数字だけ聞いていると、むしろ現実的すぎる。
香織は少し首を傾けた。
「だって、暮らすってそういうことでしょ」
またそれだ。
その一言で片づけられるのが、いちばん怖い。
千尋も、静かにうなずく。
「感情だけじゃ住めないから」
その言い方は、少しだけ苦かった。
たぶん千尋自身も、そこは分かっているのだろう。好きだから、未練があるから、親友だから、それだけで一緒に住めるわけじゃない。だから負担の話をする。役割の話をする。続けるためには、その方がいい。
理屈としては分かる。
分かるから、逃げにくい。
僕はテーブルの上を見た。
三つのマグカップ。
さっきまでただ異物に見えていたそれが、今は別の意味を持ちはじめている。
三人分。
三人で住むつもり。
三人で回すつもり。
そういう前提で、もうこの部屋の中のものは並んでいる。
僕だけが、まだその前提に入れていない。
「……そりゃ、助かるよ」
もう一度、今度は小さく呟いた。
自分に言い聞かせるみたいに。
助かる。
その事実が、たまらなく嫌だった。
三人で住むなんておかしい。
そう思っている。
でも、四万五千円が入れば、ローンはかなり軽くなる。貯金もできる。余裕も出る。将来の話だって少しは違ってくる。
食費も、光熱費も、管理費も、修繕積立金も、固定資産税も、三人で分ければ今より負担感は薄くなる。
そこまで考えてしまって、また自分にうんざりした。
何を先に計算してるんだ。
けれど、助かるものは助かる。
それもまた本当だった。
異常な提案のはずなのに、家計簿の中では妙にまともだった。
そのことが、僕をますます黙らせた。




