第17話 夜のルール
第17話 夜のルール
異常な提案のはずなのに、家計簿の中では妙にまともだった。
その感覚が、まだ頭の中に残っていた。
三人で暮らすなんておかしい。
そう思っている。
でも、部屋割りには筋が通っていた。四万五千円という数字にも現実味があった。食費や光熱費や管理費や固定資産税まで含めて考えられているとなると、もはや思いつきではない。
そこまで来てしまうと、こっちの「おかしい」は、ただの感情論に見えてくる。
それが腹立たしかった。
香織は、僕が黙ってしまったのを見て、さらに次の話を始めるつもりらしかった。
「でね、もう一つ決めてることがあるの」
その言い方に、嫌な予感しかしなかった。
「……まだあるの?」
思わずそう聞くと、香織はあっさり言った。
「あるよ」
その軽さが怖い。
もうこの場で僕が何度驚こうが、香織の中では決まった順番で説明するだけなのだろう。ひとつ言ったら、次がある。部屋の話があり、金の話があり、その先がまだある。
僕は、何を聞かされるのか身構えた。
香織は少しも間を取らずに言った。
「慎也は、私の部屋と千尋の部屋に夜に行くの」
言葉の意味が、すぐには頭に入らなかった。
「……えっ?」
間抜けな声が漏れる。
香織は繰り返さない。ただ、当然のことみたいな顔でこちらを見ている。
僕は数秒遅れて、ようやく言葉の形を掴んだ。
「千尋の部屋にも行くの?」
自分で聞いていても、その問いが変だった。
でも、そうとしか聞けなかった。
香織は即答した。
「当たり前じゃん!」
「むしろ慎也の大切な役割だよ」
「役割って……」
何を言ってるんだ、と思う。
でも香織は本気だった。
そこに冗談の逃げ道はない。
僕はゆっくりと千尋の方を見た。
千尋は、さっきまでよりもさらに視線を落としていた。
でも、逃げない。
ここで「そんな話聞いてない」とでも言ってくれれば、少しは話が変わるのかもしれないと思った。でも、そういう空気ではなかった。
千尋は下を向いたまま、小さく、ほとんど消えそうな声で言った。
「……嫌じゃなければ、来てほしい」
その一言で、部屋の空気が止まった気がした。
嫌じゃなければ。
来てほしい。
その言い方は控えめだった。
でも、控えめなだけで、意味ははっきりしていた。
千尋は、この計画の外にいるわけじゃない。
香織に巻き込まれて黙って座っているだけでもない。
自分の言葉で、この話の中にいる。
「ちょっと待って」
僕は思わず手を上げるみたいに言った。
「いや、待ってくれ」
「それって、つまり……」
つまり、何だ。
自分で言おうとして、うまく言葉にできない。
香織はその続きを、もう分かっている人の顔で引き取る。
「私たちは、もう話し合いは済んでるの」
「えっ」
それしか出なかった。
まただ。
また僕だけが、最後に知らされる側にいる。
部屋も、金も、今の話も、全部そうだ。僕の知らないところで、先に話し合いが済んでいる。僕が今ここで初めて聞いていることを、二人はもう何度も言葉にしてきたのだろう。
「まずくない? それって」
ようやく出たのは、その程度の抗議だった。
でも香織は少しも引かない。
「私も千尋もいいっていってるんだから」
「慎也は素直に喜べばいいの!」
「喜べるか!」
思わず即座に返した。
今のは、本当に反射だった。
だって、喜べる話じゃないだろう。いや、世間一般の男の幻想として切り取れば、そういう話に見えるのかもしれない。でも今の僕には、そんなふうには見えなかった。
部屋の配置の話があり、
ローンの分担の話があり、
管理費や修繕積立金や固定資産税の話まであって、
その上で今、夜にどちらの部屋へ行くかの話まで出てきている。
それはもう、夢でも何でもない。
制度だった。
生活の仕組みの話だった。
千尋が、小さく口を開く。
「……私も、簡単だとは思ってない」
僕はそちらを見る。
千尋はまだ下を向いていたが、声はかすかに震えていた。
「でも、決めたなら、ちゃんと向き合うつもり」
その一言が重かった。
決めたなら。
つまり千尋も、自分で受け入れているのだ。
簡単ではないと分かっている。恥ずかしいし、気まずいし、変だとも思っている。でも、それでも決めた以上は向き合うつもりでいる。
そこまで言われると、もう香織だけの暴走では片づかない。
僕だけが取り残されている。
その感覚が、ますます強くなる。
部屋も、金も、役割も、全部決まっている。
僕だけが、今さらそれを聞かされている。
それが、たまらなく気味が悪かった。
テーブルの上のマグカップを見た。
三つある。
さっきまではただの数だった。
今はもう違う。
三人で暮らすことの証拠であり、三人で回すつもりでいることの証拠であり、そして僕だけがその輪郭を後から知らされている証拠みたいだった。
香織は、いつもの落ち着いた顔で言う。
「ちゃんと分けて、ちゃんと守って、ちゃんと続けるための話だよ」
それは香織の中では、たぶん本当にそうなのだろう。
全部を混ぜるんじゃない。
プライベートは守る。
負担は分ける。
役割も決める。
その上で続ける。
理屈としては、きれいだった。
きれいすぎて怖いくらいだった。
「……そんなの」
僕は言いかけて、言葉を失った。
そんなの、何だ。
おかしい。
無理だ。
ありえない。
どの言葉も、今の二人の前では妙に弱く見えた。
部屋割りがある。
数字がある。
役割まである。
そこまで説明されると、ただ「嫌だ」と言うだけでは足りない気がしてくる。
でも、受け入れるなんてもっと無理だった。
制度として説明されると、余計に冗談ではなくなった。
それが、この場でいちばん恐ろしかった。




