第12話 僕の知らない計画
第12話 僕の知らない計画
沈黙が、部屋の真ん中に置かれていた。
さっきまで言葉は飛び交っていたはずなのに、今はその全部が床に落ちて、誰も拾わないままになっているような気がした。
妻妾同居。
香織が口にしたその四文字は、いまだに頭の中で変な音を立てている。
意味は分かる。言葉としては分かる。
でも、それを今、自分の生活の説明として聞かされていることが分からない。
僕は二人を見た。
香織は落ち着いている。千尋も黙っているけれど、逃げる顔ではない。
僕だけが、まだ話の入口に立ったままだった。
「……これ、いつ決まった話なんだ」
ようやく出た言葉は、それだった。
何をどう反論するより先に、それを知りたかった。
香織は少しだけ首を傾けて、軽く言った。
「結構前かな」
その言い方に、僕は眉をひそめた。
「結構前って……いつだよ」
軽すぎる。
今日思いついた話ではない、ということだけはその言い方で分かる。でも、だからこそ気味が悪かった。
香織が答えるより先に、千尋が小さく口を開いた。
「……私が帰国して、すぐ」
僕はそちらを見た。
「帰国して、すぐ……?」
千尋はうなずいた。
それはつまり、かなり前ということだ。
今日この場で言い出したような話じゃない。昨日今日の勢いでもない。帰ってきて、再会して、感情が揺れて、そこから流れでこんなことになったんじゃない。
もっと前からだ。
もっと静かに、もっと見えないところで、進んでいたということだ。
僕の知らないところで。
その考えが頭に入ってきた瞬間、胸の奥がじわりと重くなった。
「……ちょっと待ってくれ」
また同じ言葉が出る。
でも本当に、待ってほしかった。
自分の理解が追いついていない。追いついていないのに、話だけが先へ進んでいる。
「じゃあ、何だよ。お前たち、その時からこの話してたのか」
香織が、ためらいなくうなずく。
「うん」
その一言が、妙に静かだった。
言い訳もない。ごまかしもない。ただ事実として置いてくる。
僕は乾いた唇を舌で湿らせた。
「……マンション探してた時も?」
「うん」
香織は即答した。
僕の中で、いくつかの場面が急につながる。
新居を探していた時期。間取りの話。部屋数のこと。収納がどうとか、駅からの距離がどうとか、そんなことを二人で話していた記憶。
その会話の横に、僕の知らない別の前提が最初から置かれていたのか。
三人で住むつもりで。
そう思った瞬間、背中の内側がひやりとした。
「引っ越しの準備も?」
「うん」
また同じ返事だった。
短くて、揺れない。
そのたびに、僕の知らない時間が一つずつ増えていく。
僕が見ていたのは、僕の結婚生活の準備だったはずだ。少なくとも、そう思っていた。
けれど香織の中では、最初からそれだけじゃなかった。
僕と香織の新生活ではなく、三人で暮らすための準備だった。
僕の知らない計画。
その言葉が、ようやく形を持って立ち上がってくる。
「……僕、何も知らなかった?」
自分でも妙な聞き方だと思った。
でも、そうとしか言えなかった。
確認というより、答え合わせに近い。
千尋が僕を見た。
申し訳なさそうに目を伏せるでもなく、開き直るでもなく、ただ淡々と。
「うん」
その一言が、いちばん堪えた。
責める響きも、慰める響きもない。
ただ、本当のことをそのまま言っただけの声だった。
だから余計に逃げ場がなかった。
僕はソファの背にもたれた。
頭の中が熱いような、逆に冷えているような、変な感覚だった。
怒っているのかと自分に聞いてみても、少し違う気がする。
怒るなら、もっと分かりやすく怒れるはずだ。
騙された、と言い切れるならまだ楽だ。でも、そうでもない。
香織は嘘をついていたわけじゃない。千尋も、何かを奪いに来た顔はしていない。
二人とも本気で、しかも対立せずに、同じ方向を向いている。
そこがいちばんおかしかった。
普通ならどこかで揉めるはずなのに、揉めていない。
普通なら感情がぶつかるはずなのに、ぶつかっていない。
その代わりに、僕だけが置いていかれている。
僕の人生なのに、僕だけ後から説明されている。
その感覚が、じわじわと全身に広がっていった。
テーブルの上には、マグカップが三つある。
ついさっき見た時より、それがもっと意味ありげに見えた。
準備されていたのだ。
言葉より先に、空気が。
覚悟より先に、配置が。
僕がまだ理解できないでいる形が、この部屋の中にはもういくつも置かれている。
「……どうなってるんだ」
声に出したつもりはなかったのに、口から漏れていた。
香織が僕を見る。
その目はまっすぐだった。
「ちゃんと説明するよ」
その言い方は穏やかだったけれど、もう後戻りしない人の声だった。
千尋も小さくうなずく。
「……うん」
二人の間には、迷いがない。
少なくとも、僕よりはずっと少ない。
それが怖かった。
理解できないこと自体よりも、理解できないまま計画が進んでいたことの方が、ずっと怖い。
僕は今、初めて聞かされている。
でも二人は、もうこの話を何度も通ってきた顔をしている。
話し合って、考えて、決めて、ここまで来ている。
僕だけが初見だ。
僕だけが、今さら入口に立っている。
止めたいのかどうかも、まだ分からない。
止めるべきなんだろうとは思う。
でも、何をどう止めればいいのか、その形すら見えない。
三人で暮らす。
その異常さは分かる。
妻妾同居。
その言葉の古さも、おかしさも分かる。
でも、それがもう冗談でも思いつきでもなく、準備された現実として目の前に出されている。
そこまで来てしまっている。
僕はようやく、そのことだけは理解した。
理解したくなかったけれど、そこだけはもう見ないふりができなかった。
この話は、今ここで始まったんじゃない。
僕の知らない場所で、僕の知らないまま、もう始まっていたのだ。
そして今、僕だけがそれを知らされている。
次回は第15話
第13話 第14話は欠番です




