第11話 妻妾同居
第11話 妻妾同居
説明は、これから始まる。
そう思った瞬間に、むしろ頭の中は余計に混乱した。
説明されて分かるような話なのか、これが。
三人で暮らす。
香織はそう言った。
言葉としては分かる。日本語として難しくもなんともない。でも、その言葉が目の前の現実と結びつかない。結びつけたくない、と言った方が正しいのかもしれない。
僕は息を吐いて、ようやく言った。
「いや、待ってくれ」
香織も千尋も、黙って僕を見ている。
「それ、どういう意味なんだよ」
問いとしては、同じことを何度も聞いているのだと思う。けれど、同じことしか聞けなかった。ほかの角度から聞いたところで、今の僕には理解の入口が見つからない。
香織は、驚くほど冷静だった。
「そのままの意味だよ」
その答えがいちばん困る。
「そのままって何だよ」
思わず声が少し強くなる。
けれど香織は感情的にならない。ただ、こちらがようやく追いつくのを待っているような顔をしていた。
そのとき、千尋が口を開いた。
「……私も、ちゃんと考えてる」
その声は小さかったけれど、逃げる声ではなかった。
僕はそちらを見る。
千尋は視線を落としかけながらも、最後までは逸らさなかった。
逃げていない。
そのことが、かえって現実味を増した。
もし千尋が完全に受け身で、香織に押し切られてここにいるだけなら、まだ話の置きどころはあったのかもしれない。でも今の言い方は違う。自分も考えている。自分もこの話の中にいる。そういう声だった。
「いや、だから意味が分からないって言ってるんだよ」
僕は額に手を当てたくなった。
香織は僕を見て、静かに言った。
「慎也、千尋のこと、嫌いで別れたんじゃないんだよね」
僕は顔を上げた。
その問いは、まっすぐすぎた。
「……」
すぐには答えられない。
答えようとした瞬間、喉の奥が詰まった。
香織は続ける。
「日本にいなくても、応援してるって言ってたじゃん」
「千尋、帰ってきたんだよ」
「……うっ」
間抜けな声が漏れた。
帰ってきた。
その事実は、さっきからずっと目の前にある。
でも、香織にそう言葉にされると、別の意味で重くなる。
「好きだったんだよね」
「慎也、今でも千尋のこと好き?」
僕は香織を睨んだ。
言わせるな、と思った。
でも、香織は引かない。
「俺はお前が好きだよ。だから、結婚した」
それは本心だった。
迷いなく言えることだった。
僕が結婚したのは香織だ。好きだからだ。そこに嘘はない。
でも香織は、首を横に振った。
「そんなこと聞いてない」
「千尋のこと」
僕は言葉に詰まった。
答えたくない、というより、答えが単純じゃないから困るのだと、そのときようやく分かった。
香織は今度は千尋を見る。
「千尋、千尋は慎也のこと好き?」
千尋の肩が、わずかに揺れた。
「私は……」
そこで一度言葉が切れる。
でも、逃げなかった。
「私は慎也が好き」
「今でも好き」
「日本に帰ってきたとき、慎也に会えるの楽しみにしてた」
「でも、香織と結婚したって聞いたから、会うの我慢してた」
僕は千尋を見た。
「千尋……」
千尋は少しだけ目を伏せて、それから小さく続けた。
「でも、香織も大事」
その言葉は、また違う重さを持っていた。
香織が言う。
「私も千尋が大切な親友」
「もちろん慎也は大好き」
それも本気なのだと分かる。
だからこそ、話が余計におかしい方向へ進んでいるのが分かって、僕は混乱した。
香織はゆっくり言葉を並べていく。
「私と千尋は親友同士」
「私も千尋も慎也が好き」
「慎也は私が好き」
そこまで言ってから、まっすぐ僕を見る。
「千尋のことは好き?」
僕は息を飲んだ。
沈黙が落ちる。
ごまかしたい。
でもごまかせない。
「き……嫌いなわけない」
ようやく出た言葉は、それだった。
香織がすぐに返す。
「それは、好きって意味だよね」
僕は何も言えなかった。
香織は、まるで簡単な数式を解くみたいに、静かに結論へ進んでいく。
「なら、私たち三人、全員大切な人同士の集まりじゃん」
一拍置いて、香織が言った。
「だから、一緒に住むの!」
僕は完全に言葉を失った。
理屈の形をしているのに、そこから出てくる結論が飛躍しすぎている。
でも香織の中では、それが本気でつながっているのだと分かる。
千尋は固まったまま、でも否定しない。
僕だけが、その理屈の前で完全に置いていかれていた。
言葉は聞こえている。
感情も分かる。
でも、その感情からその結論に行くのは、僕の中の常識では追いつかない。
理解したいのに、理解できない。
それがいちばん苦しかった。
香織は静かに続ける。
「分かりやすく言うと――」
そこで一度だけ間を置いた。
その間がいやに長く感じる。
そして香織は、はっきり言った。
「妻妾同居」
僕は止まった。
頭の中で何かが一瞬、空白になる。
「……は?」
それしか出てこなかった。
今、何て言った。
聞き間違いじゃないと思う。思うけれど、確認したくない気持ちの方が強い。
香織は変わらず落ち着いている。
千尋は少しだけ気まずそうにしているけれど、それでもこの場から逃げるつもりはない顔をしている。
僕だけが、言葉の意味に引っかかっている。
妻妾同居。
言葉としては知っているような、知らないような、微妙な位置にある単語だった。聞いたことはある。たぶん昔の制度とか、時代劇とか、そういう方向の言葉だ。少なくとも、今、自分の新居のリビングで聞く類の言葉ではない。
「ちょっと待て」
僕は反射的にそう言った。
「その説明で、余計おかしくなった」
本当にそうだった。
三人で暮らす、という意味不明な話が、さらに見たこともない漢字四文字に変換されて、余計に分からなくなった。説明のはずなのに、知らない概念が増えただけだ。
香織は、少しだけ首を傾ける。
「でも、意味としては近いでしょ」
「近いとか近くないとかの問題じゃない」
僕は即座に返した。
「なんで今その単語が出てくるんだよ」
千尋が小さく息を吐く。
笑ったわけではない。困ったような、でも少しだけ諦めたような息だった。
僕はその気配に気づいて、余計に落ち着かなくなる。
「いや、待ってくれ」
また同じことを言っている気がする。
でも、それしか言えなかった。
「三人で暮らすってだけでも意味分かんないのに、なんでそんな……」
言いかけて、言葉が続かない。
香織が引き取るように言う。
「言葉にすると、そういうことだよ」
その言い方が、また冷静すぎる。
もうこの話を何度も頭の中で整理してきた人間の言い方だった。
僕だけが初見で、二人はもう何度もこの説明を済ませてきたみたいだった。
「私、冗談で言ってるんじゃないから」
香織は、そう付け加えた。
その声は強くもなく、弱くもなかった。ただ事実として置いてくる声だった。
千尋も、小さく頷いた。
「……うん」
僕はテーブルの上のマグカップを見た。
三つある。
それが急に、さっきよりも重く見えた。
この部屋に千尋がいる、という現実だけでもまだ受け止めきれていないのに、二人はその状態に名前までつけている。三人で暮らす話に、自分の知らない単語と、自分の知らない覚悟がもう乗っかっている。
読める。
聞こえる。
言葉として理解はできる。
でも、その言葉が僕の生活と結びつかない。
妻妾同居。
サイショードーキョ。
頭の中で音だけが浮かんで、意味が後から追いかけてこようとする。でも、その途中で僕の理解が止まる。
「……はあ?」
もう一度、似たような声が漏れた。
自分でも情けないと思う。でも、これが正直な反応だった。
千尋は少しだけ目を伏せたまま、それでも席を立とうとはしない。
香織は正面から僕を見ている。
二人とも、この話を進めるつもりでいる。
僕だけが、まだ入口で止まっている。
言葉は提示された。
でも意味は、まるで飲み込めていない。
それなのに、二人の間ではすでに通じている。
そのことが、いちばん怖かった。




