第10話 説明の場
第10話 説明の場
リビングの入口で、僕は立ち止まっていた。
香織がいて、その隣に千尋がいる。
見えているものは単純なのに、頭の中ではまるで整理がつかない。千尋がここにいる。その事実だけで十分おかしいはずなのに、二人ともあまりに落ち着いていて、その落ち着きが余計に現実感を壊していた。
香織が、静かな声で言った。
「ちゃんと説明するから、まず入って」
その言い方はさっきと同じだった。
慌ててもいないし、ごまかそうともしていない。ただ、本当に説明するつもりなのだという、それだけの声だった。
僕は上着を脱いで、中に入った。
テーブルの上にはマグカップが三つ置かれていた。
三つ。
その数が、妙に重かった。
この三つは生々しかった。香織と僕の家のはずなのに、もう最初から三人で座る前提の形になっているみたいだった。
僕は椅子に座った。
座らされるようにして、という方が近いかもしれない。
向かいに香織が座る。
千尋は少しだけ距離を取った位置に座った。
三人同席。
それだけで、逃げ場がなくなった気がした。
誰も、すぐには話さなかった。
静かだった。
重かった。
冷蔵庫の低い音だけが、やけに耳につく。
何から聞けばいいんだ。
頭の中に浮かんだのは、その言葉だった。
聞きたいことはいくらでもある。けれど、順番が分からない。順番を間違えたら、もっと変なところに話が飛んでいきそうな気さえした。
僕は息を吐いて、ようやく口を開いた。
「……とりあえず、一個だけ聞いていいか」
香織が頷く。
「うん」
僕は千尋を見た。
正確には、千尋を見ながら二人に向かって聞いていた。
「なんで、千尋がここにいる」
いちばん単純な問いだった。
単純なはずなのに、自分の声は少しだけ掠れていた。
千尋は視線を落とした。
一瞬、逃げるのかと思った。
でも逃げなかった。
「……香織に呼ばれたから」
その答えを聞いて、僕はかえって混乱した。
「呼ばれたからって……」
言いかけて、頭の中で言葉が絡まる。
「いや、それで来るか普通」
本気でそう思った。
呼ばれたから来た、で済む話ではない。しかも、ちょっと寄ったとか、顔を出したとか、そういう空気でもない。玄関の靴も、マグカップの数も、千尋の「おかえりなさい」も、全部がこの家に千尋が“いる”ことを前提にしていた。
香織が口を開く。
「普通じゃないから、ちゃんと説明するって言ったでしょ」
静かな言い方だった。
責めているわけではない。ただ、そこを今さら確認しても仕方ないという顔だった。
僕は香織を見る。
「普通じゃないのは分かってるよ」
自分でも少し驚くくらい、低い声が出た。
「だから聞いてるんだろ」
香織は、ほんの一瞬だけ黙った。
それから、はっきりと言った。
「私たち、三人で暮らすつもりなの」
その言葉は、聞き取れた。
言葉としては、何も難しくない。
私たち。
三人で。
暮らす。
つもり。
どの単語も知っている。意味も分かる。文としても成立している。
でも、意味が分からなかった。
僕は数秒遅れて、ようやく声を出した。
「……三人で?」
「うん」
香織は迷わず頷いた。
「私と、慎也と、千尋で」
確認するみたいに言われると、余計に現実味が増す。
僕は思わず、視線を千尋の方へ向けた。
千尋は黙っていた。
否定しない。
困っているようには見えるけれど、そこから逃げるつもりもない顔だった。
そのことが、また僕を混乱させた。
「いや……ちょっと待て」
口から出たのは、その程度だった。
待て、と言われても、二人が待つ気配はない。というより、二人は僕より先の場所に立っている。僕だけが置いていかれている感じだった。
千尋が、小さく息を吐いた。
「……ちゃんと説明するから」
その言葉も、香織と同じ方向を向いていた。
千尋もまた、この場から逃げるつもりはないのだと分かる。
それが余計に、僕の理解を遠ざけた。
もし香織がもっと申し訳なさそうにしてくれたら、責めることができたかもしれない。もし千尋がもっと気まずそうにしてくれたら、怒りの行き先を作れたかもしれない。
でも、二人はそうじゃない。
悪びれていないわけではない。けれど、それ以上に、決めた人間の顔をしていた。
僕は何も決めていない。
そもそも、何も知らなかった。
それなのに、二人はもう次の段階へ進んでいる。
テーブルの上のマグカップを見た。
三つある。
その事実が、妙に重い。
新居に帰ってきたはずなのに、僕だけがまだそこに住めていないような気がした。
「……」
言葉が出ない。
理解しているが、理解していない。
そんな状態が本当にあるんだなと、変なところで思った。
香織が、もう一度静かに言う。
「順番に話すから」
僕はそれにすぐ返事ができなかった。
順番に話されたところで、理解できる気がしなかったからだ。
でも、話を聞かないという選択肢も、もう残っていなかった。
千尋がここにいる。
香織がそれを前提に話している。
その時点で、僕の知らないところで何かが動いていたのは確かだった。
僕はゆっくり息を吐いた。
言葉は分かる。
でも意味が分からない。
その状態のまま、僕は二人の前に座っていた。
説明は、これから始まる。
それが、いちばん怖かった。




