第7話 金獅子の境界線 <ブレイズ視点>
最初は、ただの暇つぶしだった。
面白そうな獲物を見つけた。それだけのつもりだったんだ。
遺跡の奥で出会った、燃えるような赤髪の女。
『遺跡喰らい』のミリア。
腕は立つし、度胸もある。顔はとびきりの美人で、女王様みてえにツンとしてやがるくせに、描く絵は脳みそが沸いてんのかってくらい間抜けな生き物ばかりだ。
そのギャップに腹を抱えて笑った時、俺は思ったもんだ。
こいつは、いい「玩具」になると。
強引に連れ回し、身体を奪い、飽きるまで遊んでやるつもりだった。
俺は欲しいものは力ずくで手に入れてきたし、こいつにもそうするつもりだった。
だが――いつからだ?
調子が狂い始めたのは。
遺跡の奥深く、カビ臭い空気の中で壁画を前にした時の、あの真剣な横顔を見た時か。
古代文字を指でなぞる時の、恋する乙女のような瞳を見た時か。
決定的だったのは先日のあれだ。
俺の腕の傷を手当てした時の、アイツの震える指先。
「わたしの気が済まない」なんて強がってはいたが、その瞳は潤んでいて、本気で俺の身を案じてやがった。
あんな顔をされたら、もう駄目だ。
ただの遊び相手?獲物?
冗談じゃねえ。
俺はもう、あいつを誰にも渡す気がなくなっちまっていた。
……チッ。らしくねえ。
俺は焚き火に枯れ枝を放り込み、舌打ちした。
夜の森は静まり返っている。
パチパチと爆ぜる火の粉の向こう側には、ミリアが座っていた。
アイツは膝を抱え、けれどその手は腰の短剣から離れていない。紫色の瞳が、油断なく俺を監視している。
「……おい。いつまで起きてるつもりだ」
「あなたが寝るまでよ」
ミリアは即答した。氷のような視線が俺を射抜く。
「獣と同じ檻に入れられて、無防備に眠れるわけがないでしょ」
「ああん?俺が寝込みを襲うとでも思ってんのか」
「わたしが寝ている間に、あなたが何をするか分かったものじゃないもの」
冗談めかしてはいるが、目は笑っていない。
本気で警戒してやがる。
その言葉と態度に、カチンときた。
無性に腹立たしかった。
疑われたことに対してじゃねえ。
俺が今までアイツに向けてきた態度が、そんな安っぽいチンピラのような真似をすると思わせちまったこと――そして、俺自身がまだ「その程度」の男としてしか見られていないことへの苛立ちだ。
「……舐めんじゃねえぞ、ミリア」
俺は低い声で唸ると、傍らに立てかけていた大剣を掴んだ。
そして、立ち上がる。
「っ!?」
ミリアが身構えるより早く、俺は大剣を振り上げ――俺とミリアのちょうど中間地点、地面に深々と突き立てた。
ズドンッ!!
重量級の刃が大地を穿ち、土煙が舞う。
巨大な鉄塊が、俺と彼女を隔てる「壁」となった。
「――ここだ」
俺は剣の柄に手を置いたまま、彼女を見下ろした。
「この剣より先には、一歩も入らねえ。指一本触れねえよ」
「……え?」
「よく聞け。俺は獅子だ。死肉を漁るハイエナじゃねえ」
怒りを込めて、けれど決して恫喝にならぬよう、腹の底から言葉を紡ぐ。
「寝込みを襲うような真似で手に入れたって、何の味もしねえんだよ」
ミリアが息を呑み、紫色の瞳を大きく見開いた。
「……本気?」
「二言はねえよ」
フン、と鼻を鳴らして首を回す。
「……俺が食う時は、お前が自分から皿に乗った時だけだ。覚えとけ」
俺は剣から手を離すと元の位置まで後退し、アイツに背を向けてドカッとあぐらをかいて座り込んだ。
しばらくの間、沈黙が続く。
やがて、衣擦れの音と、小さく息を吐く音が聞こえ、
さらに数分もしないうちに、規則正しい寝息が聞こえ始めた。
俺は肩越しに振り返り――そして、呼吸を止めた。
そこには、警戒心を解き、毛布にくるまって無防備に眠るミリアの姿があった。
いつもの勝気な表情は消え、幼い子供のような顔で寝息を立てている。
長い睫毛。少しだけ開いた唇。月の光に照らされた白い肌。
——チッ。拷問かよ、これは。
俺は舌打ちをして、視線を焚き火に戻した。
ハイエナじゃねえとは言ったが、俺だって雄だ。
喉が渇く。
今なら、造作もない。
大剣を引き抜き、その身体に覆いかぶされば、全ては俺のものになる。
本能が、そうしろと叫んでいる。身体の奥が熱く疼く。
けれど、俺はその一線を越えなかった。
——クソッ。
俺は自分の髪を乱暴に掻きむしった。
あの時、俺の怪我を見て顔色を変えたお前の顔が。
「ありがとう」と呟いた、あの消え入りそうな声が。
俺の理性を、楔のように繋ぎ止めていやがる。
「……覚悟しとけよ」
俺は誰にともなく呟き、薪を焚き火にくべた。
いつか必ず、その心を俺でいっぱいにしてやる。
これはただの狩りじゃねぇ。俺とお前の、根比べだ。
お前が俺を見上げて、その瞳を熱く潤ませて、俺の名を呼ぶまで。
お前が自ら俺を求め、俺の腕の中で溶ける瞬間まで。
この程度の「お預け」、耐えてやる。
俺は夜空を見上げ、燃えるような渇きを夜風で冷ましながら、愛しい女王様の番犬に徹することを決めた。




