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第37話 風纏う影 <アズール視点>

廃坑の闇を、風が駆ける。

空気抵抗を極限までゼロに近づけ、足音を風に乗せて消し去る。

ボクは今、賢者ではなく、ただの「影」だ。


通路の角。見張りの男が二人。

彼らが欠伸を噛み殺し、瞬きをした、その僅かな隙に。


ヒュッ。


風切音すら置き去りにして、ボクは彼らの懐へと滑り込む。

手にした小剣レイピアが、闇の中で冷たい閃光を描く。

一突き目は喉元へ。二突き目は心臓へ。

悲鳴を上げる暇も、敵襲を知らせる鐘を鳴らす暇も与えない。


「……これで、七人目」


怒りはない。あるのは冷え切った殺意と、効率的な執行への義務感だけ。

兄さんなら、正面から扉を蹴破り、咆哮と共に全てをなぎ倒していただろう。


だが、ボクは違う。

これは「掃除」だ。

ミリアさんという至宝を汚す害虫を、一匹残らず、静かに、確実に排除する。


「……ここか」


廃坑の最奥。かつて資材置き場として使われていたであろう部屋の前で足を止める。

中から、微かな気配がする。

……二人。

ミリアさんと、あのリーダー格の男だ。


部屋の中央。

粗末な椅子に、彼女は座っていた。


「…………」


拘束具はない。手足は自由だ。

だというのに、彼女は逃げようともせず、ただ虚ろな瞳で虚空を見つめている。

その姿を見た瞬間、ボクの胸の奥で、どす黒いマグマが噴き上がった。


よくも。

よくも、ボクのミリアさんを、気高く美しい女王を。

空っぽな人形に変えてくれたな。


「聖なる器よ……」


男が、ミリアさんに歩み寄る。

あろうことか、その薄汚い手が、彼女の頬へと伸びた。

指先が、顎から頬にかけて、ナメクジが這うように撫で上げる。


「……ッ」


視界が真っ赤に染まる。

ボクの脳内で、何かが焼き切れる音がした。


彼女に触れる?

その不浄な指で?


ボクが、触れることを躊躇い、崇拝する、美しいその肌を。

貴様ごときが、汚すのか。


ボクは床を蹴った。

風が爆ぜる。

殺意が理性を凌駕し、ボクの身体を弾丸へと変える。

男が反応して振り返ろうとした時には、もう遅い。


一閃。


ボクのレイピアは、男の背後から心臓を一突きにし、その切っ先を胸の前へと突き出していた。


「が……っ、あ……?」


男は自分の胸から生えた刃を呆然と見下ろし、言葉にならない泡を吐いた。


「下衆が」


剣を引き抜く。

男は糸が切れたように崩れ落ち、動かなくなった。

ボクはレイピアについた血糊を振り払うと、鞘に納めた。


ふぅ、と長く、重い息を吐き出す。

肺の中に溜まっていた殺気と熱を、すべて吐き出すように。


そして、ボクはゆっくりと彼女の前へと歩み寄った。

膝をつき、彼女の視線の高さに合わせる。


「……ミリアさん」


ボクは、彼女の冷たい手に、そっと自分の手を重ねた。


「迎えに来ましたよ」


彼女の肩が、ビクリと震えた。

虚ろだった瞳が、ゆっくりと焦点を結ぼうと彷徨う。


「……アズ……ール……?」


か細い、今にも消え入りそうな声。

その瞳は未だ霧の中で震えている。


「ええ。アズールです。……貴女の、アズールですよ」


ボクが微笑みかけると、彼女は糸が切れたようにボクの胸へと倒れ込んできた。


「……っ」


慌てて抱き留める。

軽い。あまりにも軽い。

この数時間で、どれほどの恐怖と消耗を強いられたのか。

腕の中の温もりが、愛おしくて、たまらない。


「帰りましょう、ミリアさん」


ボクは彼女を横抱きに抱え上げた。

華奢な身体が力なく揺れる。


もう、離さない。

二度と、誰にも奪わせない。


          ◇


街外れにある宿屋の一室。

そこは、世界から切り離されたかのように静寂に満ちていた。


この二日間、ミリアさんは文字通り「人形」だった。

食事を与えれば咀嚼し、目を閉じさせれば眠りに落ちる。

その瞳は、曇ったアメジストのように光を失い、ただ虚空を映すだけだった。


「ミリアさん……」


もし、このまま戻らなかったら……。


ボクは彼女の手を握りしめ、祈るように夜を明かした。

眠れなかった。

目を離せば、彼女がどこか遠くへ行ってしまうのではないかという恐怖が、ボクを縛り付けていた。


          ◇


そして、三日目の夜。

窓の外で、冷たい風が梢を揺らす音が聞こえていた。

明日には、兄さんが戻ってくる。

彼女の心を守れなかったボクを、あの人はどう思うだろうか。


「……アズール」


不意に、懐かしい響きが鼓膜を震わせた。


「ッ!?」


弾かれたように顔を上げる。

ベッドの上、上体を起こしたミリアさんが、ボクを見ていた。

その瞳には、あの虚ろな濁りはない。

理知的で、そしてどこか潤んだ、いつもの彼女の輝きがあった。


「ミリアさん……!意識が、戻ったのですか!?」


「……ええ。随分と、長い悪夢を見ていた気がするわ」


彼女は小さく頭を振ると、困ったように微笑んだ。


「心配かけたわね、アズール。……ずっと、そばにいてくれたのね」


「当たり前です!貴女を一人になど……!」


安堵で、膝から崩れ落ちそうだった。

よかった。戻ってきた。ボクの愛しい女王が。

張り詰めていた緊張の糸が切れ、目頭が熱くなるのを必死に堪える。


「……ねえ、アズール」


「はい。何でも言ってください。水ですか?それとも……」


「抱いて」


時が、止まった。

ボクの頭脳が、その言葉の意味を処理することを拒否し、ショートする。


「……は、い?」


「抱いて、と言ったの。今すぐ」


彼女の瞳は、熱っぽく潤んでいる。だが、それは恋慕の熱ではない。

何かに怯え、縋るような、切羽詰まった色。

彼女は、身体の奥に残る「操られていた恐怖」を、他者の体温で塗りつぶそうとしているのだ。


「……いけません」


ボクは、震える手で彼女の肩を押し返した。

喉が渇く。心臓が早鐘を打つ。

抱きたい。焦がれるほどに、彼女に触れたい。

だが、今の彼女は正常ではない。弱っている彼女に付け込むことなど出来るはずがない。


「ボクは……貴女の『傷』になりたくはありません」


それはボクの精一杯の誠実さであり、同時に逃げでもあった。


怖いのだ。


もし、彼女が正気を取り戻した時、この夜のことを後悔したら。

ボクの存在が、彼女にとって消したい汚点になってしまったら。

そう思うと、手が出せなかった。


「……そう」


ミリアさんの手が伸びる。

ボクの腕を引く力は、驚くほど強かった。


「なら、これはお願いじゃない。命令よ、アズール」


彼女が、ボクの首に腕を回し、強引に顔を近づける。

吐息がかかる距離。甘い香りが、ボクの理性を溶かしていく。


「わたしが恐怖に沈んでしまわないように……あなたの腕で、私を縛りつけて。あなたのこと以外、何も考えられないようにして」


「――ッ!」


それは、ボクの理性の防壁を粉砕する、決定的な一撃だった。

命令。女王からの勅命。

ならば、従う以外の選択肢など、ボクにあるはずがない。


「仰せの……ままに。我が女王クイーン


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