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第36話 失踪そして疾走 <アズール視点>

「ミリアさんッ!!」


ボクの絶叫が、冷たい石壁に反響する。

ミリアさんからは何の反応もない。


「……邪魔だ、小僧」


黒衣の男たちが、影のように滑らかな動きでボク達の前に展開する。

数が多い。それに、ただのゴロツキではない。組織的な訓練を受けた戦闘のプロだ。


「『氷よ』!」


『蒼天詠み』を振るう。

杖に刻まれたルーンがボクの意思を汲み取り、瞬時に強固な氷の壁を生成した。


「ミリアさん、しっかりしてください!ボクの声が聞こえますか!?」


背後の彼女に必死に呼びかける。

しかし、返事はない。

聡明で、時に悪戯っぽく輝く紫の瞳は、今はただ虚空を彷徨っている。


「……無駄だ」


リーダー格の男が、嘲るように言った。

彼は懐から再び、あの忌まわしい銀色の鈴を取り出した。


チリン……。


澄んだ、鈴の音が再び響き渡った。


その瞬間。

背後から強烈な違和感を感じて振り返る。

視界を埋め尽くす銀閃。


「――ッ!?」


思考が凍りつく。

迫りくる切っ先。

ボクは風を纏い、強引に身体を横へと弾いた。


ヒュンッ!!


一瞬前までボクがいた空間を、銀色の刃が切り裂いた。

数本の金髪が宙を舞い、ハラハラと落ちる。


頬に熱い痛みが走る。

一筋の鮮血が舞い、ボクはたたらを踏んで後退した。


「な……ミリア、さん……?」


信じられなかった。

彼女が、ボクに刃を向けた?

ボクの命を救い、優しく名前を呼んでくれた彼女が?

心が追いつかない。


「あ、あ……」


その美しい顔には、一切の感情がなかった。

ただ、命令を実行する機械のように、冷たく、虚ろな瞳でボクを見据えている。


「…………」


彼女が、再び双剣を構えた。

そのあまりの絶望的な光景に、ボクの思考回路は完全に停止した。

防御しなくてはいけないのに、指先が震えて動かない。


ボクの心に生まれた致命的な隙。

熟練の暗殺者たちが、それを見逃すはずがなかった。


「終わりだ」


男の声と共に、圧縮された風が爆発する。


ドォォォォォォンッ!!


「がはっ……!!」


氷壁も間に合わず、枯れ葉のように石壁へ叩きつけられる。


「あ……ぐ……っ」


視界が明滅し、激しい耳鳴りが脳内を支配する。

薄れゆく意識の中、ボクは必死に顔を上げた。


「……ミリア……さ……」


黒衣の男たちが、悠然と出口へと歩いていく。

そして、その中央には。


ミリアさんがいた。

彼女は抵抗することなく、自分の足で、彼らの後をついて歩いていた。

ボクを振り返ることもない。

行かないで……!


手を伸ばそうとしたが、指先がピクリと痙攣しただけだった。

無力だ。

兄さんに誓ったはずなのに。

彼女を守ると。

なのに、ボクはまた、何もできずに――。


「……み、り……あ……」


絶望の淵で、ボクの意識はプツリと途絶えた。


          ◇


冷たい石畳に頬を押し付けたまま、ボクは肺に溜まった空気を吐き出した。

全身が軋む。

だが、そんな肉体的な苦痛など、脳裏に蘇った光景に比べれば、蚊に刺された程度のものでしかなかった。


銀色の鈴の音。虚ろな瞳。

そして、ボクに向けられた双剣の切っ先。


『…………』


彼女はボクに斬りかかった。

躊躇いもなく。慈悲もなく。


「あ……ぁ……」


痛い。頬の傷が、ではない。

胸の奥が、どす黒い泥で満たされていくような感覚。

信頼していた彼女に、裏切られた絶望感。


……いや、違う。

あれは、ミリアさんの意志ではない。


あの鈴の音。

あれは彼女を操る、何らかの古代魔術か、あるいは呪いの類だ。

そうでなければ、あの優しかった彼女が、ボクに刃を向けるはずがない。


彼女は、被害者なのだ。

そして、その彼女を守れなかったのは、他ならぬボク自身の不甲斐なさだ。


「……無能め」


自分自身への呪詛が、喉の奥から漏れる。

視界が涙で滲む。

このままここで朽ち果ててしまいたいという、甘美な絶望が思考を塗りつぶそうとする。


――だが。


「……非効率だ」


ボクは奥歯を噛み締め、無理やり身体を起こした。

絶望している時間など、一秒たりともない。


泣いている暇があるなら、脳を動かせ。

ボクは「静謐の賢者」アズール・クリフォードだ。

力で劣るボクが、知性まで放棄してどうする。


ボクは身体を起こし、各部の損傷を確認した。

肋骨にヒビが入っているかもしれないが、肺は無事だ。

頬の切り傷は浅い。出血は止まっている。


「……動ける」


彼らの目的がミリアさんの身柄であることは明白だ。

ボクが意識を失っていた時間は、体感でおよそ数時間。


長距離を移動するには、彼らはあまりに身軽すぎるように見えた。ならば、彼らは一度、近隣に確保していたアジトへと戻り、態勢を整えているはずだ。


ボクは脳内のライブラリを検索する。

今回の依頼のために、周辺の地理は徹底的に頭に叩き込んである。

集団で身を隠し、なおかつ外部からの侵入を防ぎやすい場所。


候補は、三つ。

いや、この霧深い森からの距離と方角、そして彼らの装備を考慮すれば、答えは一つしかない。


「……見つけましたよ」


杖『蒼天詠み』を強く握りしめる。

兄さんはいない。戻るまで、あと丸四日。

待っていられるわけがない。

彼女を守れるのは、今、この世界でボクだけだ。


ボクは、風の魔術をその身に纏った。

敵を攻撃するためではない。

ただ一点、自らの身体を加速させるためだけに。


景色が、思考の速度を超えて後方へと流れ去っていく。

ボクの瞳には、もはや森の木々も、険しい岩肌も映らない。

ただ、一直線に、予測した一点だけを見据えていた。


          ◇


鬱蒼とした森を抜けた先。

崖をくり抜いて作られた、巨大な廃鉱の入り口。錆びついたトロッコのレールが、怪物の喉のような闇の中へと不気味に続いている。


間違いない、ここだ。


ボクの予測を裏付けるように。

遺跡で見たのと全く同じ、漆黒のローブを纏った男が、見張りとして静かに佇んでいる。


「……覚悟しておきなさい、下衆共」


ボクは騎士ではない。正々堂々と戦うつもりなど毛頭ない。


「ボクの大切な人を奪ったことを……地獄の底で後悔させてあげますよ」


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