第35話 銀の鈴の音色
「――依頼品である『月光草』について、緊急の伝達事項です!」
使者の言葉に、場の空気が張り詰める。
「月光草は採取後、特殊な保存処理を施さねば、その薬効を失うようです。ついては、西方に住む古代薬学の術師を訪ね、保存術式が記された『銀の写本』を借り受けてきていただきたいのです」
「……ああん?ふざけんな」
使者の言葉に、ブレイズが木箱を蹴り飛ばす。
無理もない。
術師の庵は遺跡と真逆、早くても往復丸五日の距離だ。
「分担しましょう」
アズールが、懐から地図を取り出しながら冷静に提案する。
「兄さんが、その術師の元へ走ってください。ボクとミリアさんは予定通り遺跡へ向かい、『月光草』を採取します。兄さんが戻るまで、ボクの氷結魔術を使えば、劣化を遅らせることは可能です」
その提案は最も効率的な解だった。
わたしもアズールの案に頷く。
だが、ブレイズの不機嫌はさらにひどくなり、殺気を帯びているようだ。
「てめえの提案は、つまり、俺が五日間、ミリアのそばを離れろ、ということか?それも、ミリアとお前を二人きりで残して、だと?」
地を這う声には、独占欲と不信がたっぷり煮詰められている。
ブレイズの周囲で、大気がビリビリと震えるのが分かった。
——まったく。
「あなたねぇ……。アズールは、最も合理的な判断をしたまででしょう」
「そういう問題じゃねえ」
「いいえ、そういう問題よ」
わたしはブレイズの分厚い胸板に、人差し指をトン、と突きつけた。
「アズールは信頼できる『仲間』よ。私には、ヴァルガスが鍛えてくれた最高の『相棒』もいる。それに……」
わたしは一度言葉を切り、獅子の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「……あなたなら、すぐに戻ってきてくれるでしょ?だから、大丈夫」
その言葉は、どんな拘束具よりも強く、この暴れる獅子を縛り付けたようだ。
ブレイズは、ぐ、と喉を鳴らし、バツが悪そうに視線を逸らす。
「……分かったよ。……おい、アズール」
ブレイズが再び弟へと向き直る。その瞳には、獰猛な光が戻っていた。
「ミリアの髪の毛一本でも傷つけてみろ。てめえのその綺麗な顔が、二度と元の形に戻らねえように、地面に擦り付けてやるからな。覚えとけ」
「ええ、肝に銘じておきましょう。兄さん」
アズールは涼しい顔で頷いたけれど、その瞳の奥が一瞬、好機とばかりに光ったのをわたしは見逃さなかった。
◇
ブレイズが後ろ髪を引かれるように街を発ってから、アズールとの二人旅が始まった。
そしてわたしはすぐに、ブレイズの過剰な心配が、あながち見当違いではなかったことを思い知らされる。
「足元、凍らせておきました。歩きやすいでしょう?」
「風除けの結界です。髪が乱れません」
「あなたの体調に合わせたスープです。さあ、召し上がれ」
アズールのエスコートは、完璧だった。
いや、完璧を通り越して、どこか常軌を逸していた。
彼は兄がいないこの時間を、まるで神から与えられた至福の休暇か何かのように謳歌している。
常にわたしの数歩先を歩き、障害物を排除し、休憩のたびに至れり尽くせりの世話を焼く。
その横顔は、恋に浮かれた青年のそれだった。
そして、極めつけは夜だ。
「ボクが見張りに立ちますので、ミリアさんはどうぞお休みください」
翌朝、目覚めたわたしは、朝食を用意して待っていたアズールの顔を見て絶句した。
彼の目の下に、深い隈が刻まれている。
「……アズール、あなた、まさか一睡もしていないの?」
「問題ありません。ボクの体力はミリアさんの寝顔を守ることで回復しますので……」
「嘘おっしゃい」
わたしは呆れてため息をついた。
きっと一晩中、わたしの寝顔を見つめていたに違いない。
「いいから、三時間、あなたはここで眠りなさい。これは命令よ」
わたしは有無を言わせぬ口調で告げ、自分の毛布を彼の肩にかけた。
「……申し訳ありません。あなたをお守りすべき立場のボクが……」
「馬鹿ね。疲れて倒れたら、元も子もないでしょう。次からは、ちゃんと休むこと。いいわね、アズール」
アズールはしゅんとして頷く。
なんだか、叱られた子犬みたいで可愛いわね。
◇
遺跡の最深部。
天井に空いた巨大な穴から、月光がスポットライトのように差し込む幻想的な空間。
その光を浴びて、無数の「月光草」が青白く輝いていた。
「……きれい」
息を呑む美しさ。
アズールが手際よく採取を済ませ、保存箱に収める。
任務完了。
安堵のため息をついて、踵を返そうとした、その時だった。
「……!」
肌を刺すような、粘着質な視線。
わたしは弾かれたように振り返った。
遺跡の入り口。
いつの間に現れたのか、そこには数人の人影が、闇から滲み出したかのように佇んでいた。
全員が顔の判別もつかないほど深くフードを被り、漆黒のローブにその身を包んでいる。
「……久しいな、『器』よ」
リーダー格の男が、一歩前に進み出た。
その声は、平坦で、どこか無機質な響きを持っていた。
「また、その呼び名……」
わたしは双剣の柄に手をかけ、警戒を露わにする。
以前、わたしを襲った黒衣の集団と同じだ。
「大人しく、我々と共に来てもらおう」
男の言葉と同時に、影たちが音もなく展開し、わたしたちを取り囲む。
「ミリアさん、ボクの後ろへ!」
アズールが即座にわたしの前に立ち、『蒼天詠み』を構える。
その背中からは、先程までの甘い空気は消え失せ、張り詰めた殺気が放たれていた。
「……いい度胸ですね。ボクの貴重な時間を邪魔するとは」
アズールが最初の攻撃呪文を紡ごうとした、その瞬間だった。
チリン……。
場違いなほど澄んだ、銀色の鈴の音が、男の手元から響き渡った。
「――っ!?」
その音を聞いた瞬間。
わたしの世界から、全ての音が消えた。
視界がぐにゃりと歪み、激しいノイズが走る。
頭の芯が痺れ、思考が真っ白に塗りつぶされていく。
――ああ、この音……。
懐かしいような、それでいて吐き気がするほど恐ろしい音。
鈴の音が聞こえるたびに、わたしの心が泥の中に沈んでいく。
虚ろな瞳で、命令を受け入れるだけの人形になり果てる。
わたしは立っていられなくなり、その場に崩れ落ちた。
「ミリアさん!?」
アズールの焦ったような叫び声が、遠く、水底から聞こえるようだった。
わたしの意識は、そこでぶつりと途切れた。




