第32話 天使
「……ボクは、ここで待たせてもらいます」
『Rosa's Nest』へと続く薄暗い路地の前で、アズールはいつものようにぴたりと足を止めた。
ハンカチで口元を覆い、泥濘んだ地面を忌々しげに見下ろしている。
「だめよ」
言い訳を聞くより早く、細い腕をぐいっと掴む。
「あなたも、わたしたちの『仲間』になったんでしょう?いつまでもコソコソしていないで、ちゃんと顔を見せなさい」
「し、しかしミリア様!このような不衛生な場所は……!」
「問答無用よ」
わたしはアズールの腕を引いてずんずんと路地の奥へと進んでいった。
隣では、ブレイズが腹を抱えてケラケラと笑っている。
バァン!と、わたしの隣でブレイズが豪快に店の扉を蹴り開けた。
わたしが引きずるようにして連れてきた、怪しいフードの男の姿に、店内の視線が集まる。
「あらァん、ミリアちゃんじゃないの。お帰りなさい」
カウンターの奥で、極彩色のドレスに身を包んだローザが、いつものようにグラスを磨きながら悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「そちらの可愛い迷子ちゃんはどなたかしらァ?」
ねっとりとした視線。わたしはアズールの背中を叩いた。
「新しい仲間よ。……ほら、挨拶なさい」
アズールは深い深い溜め息をつき、覚悟を決めたようにフードへ手をかけた。
「……アズール・クリフォードです」
彼がフードを脱ぎ捨て、その素顔を晒した、その瞬間だった。
怒声も嬌声も、全ての音が消え失せる。
水を打ったような静寂。
そこにいたのは、この掃き溜めのような酒場には不釣り合いな『異形』。
薄明かりの中、後光のように輝く金髪、彫刻めいた美貌、冷徹な青い瞳。
カチャン。
ローザの手からグラスが滑り落ちた。
厚化粧から余裕が消え、その目が驚愕と歓喜に見開かれる。
「……あ……あらまあ……」
ローザがカウンターからぬるりと身を乗り出し、夢遊病者のように歩み寄る。
鼻先が触れる距離まで顔を近づけ、舐め回すように見つめた。
「……天使ちゃん……本物の、天使ちゃんがいるわ」
熱い吐息にアズールの喉が引きつる。
無理もない。目の前に迫るのは、極彩色の化粧と圧倒的な生命力を放つ、性別を超越した魔王の顔なのだから。
「ねえ、あなたお年は?どこから来たの?」
興奮が最高潮に達し、ローザは歓喜の叫びを上げた。
「ああもう!あなたみたいな綺麗な子、ママ、だーーーい好きよォ!」
「ひぃッ!!」
アズールが、まるで乙女のような悲鳴を上げた。
彼は論理的思考を放棄し、衝動のままにわたしの背後へとぴゃっと飛びのいて隠れた。
わたしの肩越しに、ガタガタと震えながらローザを覗き見ている。
「「「ブハハハハハハ!」」」
店中が笑い転げる。ブレイズもまた、テーブルをバンバンと叩きながら、涙を流して笑っていた。
◇
ブレイズが店の中心で荒くれたち相手に武勇伝を披露している、その一方で。
隅にある薄暗いボックス席に、その影はあった。
手元にあるのは酒ではない。ただの炭酸水だ。
そういうところ、本当に真面目というか、彼らしい。
「ここ、いいかしら?」
声をかけると、彼はビクリと肩を震わせる。
「……ミリア様。ええ、どうぞ。ここはボクには騒々しすぎます」
わたしは向かいの席に滑り込み、頬杖をついて彼を見つめた。
薄明かりの中で揺れる瞳は、以前のような冷たいガラス玉じゃない。人間らしい体温が宿っている。
「まずは、お礼を言わせて」
わたしは居住まいを正し、真っ直ぐに彼を見た。
「あの遺跡で、ブレイズを守ってくれたこと。そして……命を懸けて、わたしを導いてくれたこと。ありがとう、アズール」
「……礼には及びません。ボクは、ボクの判断でやっただけです」
彼は視線を逸らし、照れ隠しのように炭酸水を口に含んだ。
素直じゃない。でも、そこが可愛い。
「それに……聞こえたわ、アズール。あなたの本当の気持ち」
「……っ」
「でもね」
わたしは一度言葉を切り、少しだけ意地悪く、そして挑発的に微笑んだ。
「今のままじゃ、足りないわ」
「……え?」
彼はきょとんとして瞬きをした。
「あなた言ったわよね。『兄さんのようになれない』って。……それでいいのよ。あなたはブレイズじゃない。太陽になる必要なんてない」
わたしは彼の手を強く握りしめる。
「それでも、『あなたがほしい』とわたしに言わせてごらんなさい。……中途半端なやり方じゃ、わたしは堕ちないわよ?」
「……!」
アズールの瞳に、雷に打たれたような衝撃が走る。
そして、すぐに強い光が宿った。
彼はわたしの手を、両手で包み込むように握り返した。
「……望むところです、ミリア様。ボクは、必ずあなたを……!」
「待って」
彼の言葉を、わたしは人差し指でそっと塞いだ。
「誓う前に、一つだけ直してもらうことがあるわ」
わたしは不満げに眉をひそめてみせた。
「いつまで『ミリア様』なんて呼んでいるの?わたしはあなたの『仲間』でしょう?呼び捨てでいいわ」
「よ、呼び捨て……!?そ、そんな!できません!」
アズールがガタッと椅子から立ち上がり、ブンブンと首を横に振った。
「あなたはボクの『光』であり、ボクが仕えるべき主君です!呼び捨てなど、不敬にも程がある!」
「あら、わたしの言うことが聞けないの?」
わたしは小首を傾げ、上目遣いで彼をじっと見つめた。
少しだけ目を潤ませて。
「『ボクはボクのやり方で幸せにする』って言ったのは嘘?わたしの小さなお願い一つ、叶えてくれないの?」
「うっ……そ、それは……ずるいです……」
アズールは脂汗を流しながら、視線を泳がせた。
敬意と、愛情と、そして根強い気恥ずかしさ。
彼の内側で、論理と感情が激しくせめぎ合っているのが分かる。
「ほら、言ってみて?」
わたしは逃がさないように、じっと彼を見守った。
彼は深呼吸を繰り返し、覚悟を決めたように喉を動かした。
「……ミ、ミリ……ア……」
蚊の鳴くような声。
あと一息。
「ミリア……」
彼は真っ赤な顔で、しかし精一杯の勇気を振り絞って、その言葉を紡いだ。
「……さん」
「……ぷっ」
わたしは思わず吹き出した。
呼び捨てにはできなかった。
でも、「様」よりはずっと近い。
「わ、笑わないでください!これがボクの精一杯なんです!」
「ふふ、ごめんなさい。……いいわ、合格よ」
わたしは微笑んで、彼の頭を子供にするように撫でた。
そして彼の耳に、蜂蜜のような猛毒を流し込む。
「その呼び方も、あなたらしくて素敵よ、アズール。……これからも、いろんな場所で、わたしの名前、沢山呼んでちょうだいね?」
吐息を交えて囁かれた言葉に、彼は大きく目を見開く。
「……はい。……ミリア、さん」
アズールは熱に浮かされたように、けれどどこか嬉しそうに、噛み締めるようにわたしの名を呼んだ。




