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第31話 宣戦布告 <アズール視点>

意識が浮上する感覚は、泥沼から身体を引き抜くような重たさを伴っていた。


「……ッ」


身体を起こそうとして、左胸に走った鈍い痛みに呻く。

はだけたローブの隙間。心臓の真下。

慌てて手で触れると、そこには破れたローブの隙間から、赤黒く盛り上がった火傷のようなあとが残っていた。


「……馬鹿な」


視線を横に向けると、ボクのすぐ隣で、ミリア様が泥のように眠っていた。

その顔色は蒼白で、呼吸は浅い。

まるで、生命力を根こそぎ奪われたかのような衰弱ぶりだ。


そうか……。

ボクは、生き延びたのではない。生かされたのだ。

彼女の命を削り取り、その代償として。


「ミリア、様……」


ボクは、そっと手を伸ばし、その白い頬に触れようとして――やめた。今のボクに、彼女に触れる資格などない。


「……気がついたか」


頭上から、低い声が降ってきた。

見上げれば、瓦礫に腰掛けた兄さんが、大剣を杖代わりにしながらこちらを見下ろしていた。

その顔には、安堵と、気まずさと——、複雑な感情がない交ぜになっている。


「兄さん……」


「俺は、礼は言わねえぞ。お前が勝手にやったことだ」


だが、その表情はすぐに、ニヤリと意地の悪いものに変わった。


「……で?随分と熱烈な『遺言』だったなぁ?聞いてるこっちが恥ずかしくなるくらいだったぜ」

「――ッ!?」


ボクの心臓が止まりかけた。


「き、聞いて……いたのですか」


「当たり前だ。あんな静かな場所で、あんな大声で愛の告白されちゃあな。耳を塞ぐ暇もなかったぜ」


兄さんの瞳が、スッと細められ、真剣な光を宿した。


「本気か?」


逃げ場のない問いかけ。

ボクは、胸の傷跡に手を当てた。

ここで目を逸らしてはいけない。


この命は、彼女が繋ぎ止めてくれたものだ。

ならば、ボクはもう、自分の心に嘘をついて生きていくわけにはいかない。

ボクは深く息を吸い込み、兄さんを真っ直ぐに見据えた。


「……ええ。本気です」


一度口にしてしまえば、あまりにもあっけない。

ボクはふらつく足で立ち上がり、兄さんと対峙した。

身長はほぼ同じ。

今のボクは、かつてのように彼を見上げてはいない。


「ボクは彼女を愛しています。一人の男として」


宣言した瞬間、胸のつかえが取れた気がした。

そうだ。ボクはずっと、これを言いたかったのだ。

兄さんの口元が、獰猛に歪む。


「くっ……ハハハハッ!言いやがった!俺の後ろで震えてたあのガキが、俺に喧嘩売りやがった!」


その目がボクを敵として認める。


「上等だ。……だが、負ける気はねえぞ」


「ええ。ボクはもう、貴方の影でいるつもりはありません。ボクはボクのやり方で、彼女を幸せにしてみせる」


バチバチと、視線が火花を散らす。

これまでの憎しみ合う関係とは違う。

同じ『獲物ミリア』を狙う、二頭の獣としての宣戦布告。


「……ん……ぅ」


その時、ボクたちの間の張り詰めた空気を溶かすように、小さな呻き声が聞こえた。

ミリア様の睫毛が震え、その紫色の瞳がゆっくりと開かれる。


「……アズ、ール……?」


「ミリア様!」


駆け寄って膝をつく。

お礼を言わなければ。

しかし、彼女は重たそうに身体を起こすと、ボクが言葉を発するよりも先に、ボクの首に腕を回し、ぎゅっと抱きしめてきた。


「……よかった。生きてる……本当に、よかった……」


「っ!?」


不意打ちだった。

ボクの首に華奢な腕が回され、甘い香りが鼻孔を満たす。

胸に押し付けられる柔らかい感触と、涙に濡れた頬の熱さ。

彼女の全てが、ボクの理性を一瞬でショートさせる。

言葉が出ない。顔が一気に沸騰する。


好きだ。


このまま、時が止まればいいのに。


ボクは、恐る恐る手を上げた。

この背中を抱きしめ返したい。

「生かしてくれてありがとう」と、「貴女を愛しています」と伝えるために。


ボクの手が、彼女の背中に触れようとした、その瞬間。


グイッ!!


強烈な力で襟首を掴まれ、ボクはミリア様から乱暴に引き剥がされた。


「そこまでだ」


視界に割り込んできたのは、不機嫌そうに鼻を鳴らす兄さんの顔だった。


「どさくさに紛れて抱きつくんじゃねえよ」


兄さんはボクたち二人の間に割って入り、ミリア様を自分の背後に隠すように立ちはだかった。


「……乱暴ですね。こちらは病み上がりだと言うのに」


ボクは皮肉を返すことしか出来ない。


          ◇


「約束の品よ、ヴァルガス」


ミリア様が背負い袋から、分厚い布に包まれた『それ』を取り出し、作業台の上にドンッ、と置いた。

布が解かれる。

露わになったのは、鈍い銀色の輝きを放つ、無骨な槌だった。


『オリハルコンの槌』。


魔術的な観点から見れば、それは極めて高密度の魔力伝導体であり、現代の技術では再現不可能なものだ。だが、この煤けた男にとっては、それ以上の意味を持つのだろう。


「……こいつぁ」


ヴァルガスが息を呑む音が聞こえた。

岩のような指先が、恐る恐る槌の柄に触れる。その手つきは、信仰に近い慎重さだ。


「本物だ……。本物の、古代ドワーフの『魂』だ……!」


震える声。彼の目尻に、光るものが浮かんでいるのが見えた。

伝説の職人が、生涯をかけて追い求めた夢。それが今、彼の手の中にある。

非論理的だ。ただの道具に過ぎない物体に、これほどの感情を投影するとは。


……しかし、悪くない光景ではありますね。


「よくやった。……よくぞ、持ち帰ってくれた」


ヴァルガスは槌を愛おしげに抱きしめると、ゆっくりと顔を上げ、ボクたちを見回した。

そして、その鋭い視線が、最後にボクで止まった。


出発前、ボクの瞳を「死んだ魚みてえな目」と吐き捨てた、無礼極まりない男。

今回もまた何か暴言を吐くつもりかと身構えたが、今のヴァルガスは、ニヤリと口の端を吊り上げ、満足げに頷いたのだ。


「へっ。どうやら、死んだ魚の目は治ったようだな」


「……失敬ですね」


ボクは不服そうに眉をひそめる。


「ボクの瞳は、いつだって理性的で澄んでいますよ。あなたの審美眼が曇っているのでは?」


「ハッ、減らず口を。……だが、いい目になりやがった。自分の命より重てえもんを見つけた、男の目だ」


「――ッ」


ボクの喉が、引きつったように凍りついた。


『自分の命より重たいもの』。


その言葉が意味するものを、ボクの脳が理解するより早く、視線が無意識に動いてしまう。

隣に立つ、赤髪の女王へと。

そして、自分が彼女を見ていることに気づき、慌てて視線を逸らした。


——観察眼だけは鋭い男だ。


耳の先が、カッと熱くなるのが分かる。

ボクの優先順位プライオリティの最上位は、確かに書き換えられてしまった。

それを、こんな初対面に等しい無骨な男に見透かされるとは、賢者の名折れだ。


「……嬢ちゃん、いや、お前さんたち。報酬だ」


ヴァルガスは、涙を腕でごしごしと拭うと、工房の奥を指差した。


「三日だ。三日後に、またここへ来い。この俺の生涯最高の傑作を、お前さんたちにくれてやる!」


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