第29話 賢者の献身
それは意思を持った見えない翼のように、わたしの軌道を精密に制御してくれる。
すごい……!
縦穴を猛烈な速度で下降しながら、わたしは舌を巻いた。
アズールは遥か上空、あの激しい揺れと攻撃の中で、わたしの動きと敵の砲撃予測を完璧に同期させているのだ。
これほどの並列処理、彼以外の誰にできるというの。
壁を蹴り、熱線の網をくぐり抜け、垂直の壁を滑るように降下していく。
右!……次は左下!
思考するより早く、風が「あっちだ」と教えてくれる。
背中を押され、身体を引き上げられ、わたしはダンスを踊るように死地を駆け抜ける。
彼の魔力が、わたしの肌を撫でる。
その感触は、いつか彼が手渡してくれた花束のように、どこまでも優しく、献身的だ。
「見えた……!」
最下層、あれが制御中枢だ。
わたしは落下の勢いを殺さずに着地した。
双剣を逆手に持ち替え、制御装置の表面に刻まれた複雑怪奇なルーン回路を見据えた。
「構造把握……魔力供給ライン、特定!」
ただ砕くだけじゃダメ。暴走して自爆する可能性がある。
わたしがやるべきは、この回路の「心臓」を止めること。
「そこねッ!!」
わたしは迷いなく、双剣の切っ先を魔力結節点へと突き立てた。
パリンッ!!
途端に、空間を支配していた不気味な駆動音が止んだ。
狙いを定めていた無数の砲口が、時が止まったかのように沈黙する。
「……ふぅ」
静寂が戻った。
わたしは額の汗を拭い、上を見上げた。
ガコン、ガコン……という重たい音と共に、傷だらけになった昇降機の籠が降りてくるのが見える。
プシュー……。
蒸気を吐き出しながら、籠が最下層に到着し、ひしゃげた柵が開いた。
「……へっ、やるじゃねえか、ミリア」
ブレイズが、大剣を杖代わりにして足を引きずりながら出てきた。
その顔色は悪いけれど、ニカッと笑う口元はいつもの彼だ。
「ブレイズ!」
わたしは駆け寄り、彼に肩を貸した。
「足、見せて」
「平気だっての。それより、お前こそ怪我はねえか?アズールの奴、無茶苦茶な風を送りやがって……」
「ううん、完璧だったわ。彼のおかげで、傷ひとつない」
わたしは誇らしげに胸を張った。
本当に、最高のサポートだった。
あの緻密なコントロールがあったからこそ、わたしは迷わずに飛び込むことができたのだ。
「ねえ、アズール。あなたのおかげよ。ありがとう、最高の仕事だったわ」
わたしは、昇降機の中に残っているはずの彼に声をかけた。
籠の奥、薄暗い影の中に、彼が立っているのが見える。
「……アズール?」
返事がない。
彼は杖を握りしめたまま、微動だにしない。
俯いていて表情が見えない。魔力を使い果たして動けないのだろうか。
「もう、意地悪しないでよ。ほら、早く降りて……」
わたしが笑顔で手を差し伸べようとした、その時だった。
彼が、ぐらりと傾いた。
ドサリ。
乾いた音がして、アズールが膝から崩れ落ち、そのまま受け身も取らずにうつ伏せに倒れ込んだ。
その身体の下から、じわりと赤い液体が広がっていくのが見えた。
「……え?」
思考が止まる。
わたしとブレイズは顔を見合わせ、慌てて彼に駆け寄った。
「おい、アズール!ふざけてねえで起きろ!」
ブレイズが彼の身体を乱暴に仰向けにする。
その瞬間。
わたしの喉から、ヒュッ、と空気が抜ける音がした。
「……ぁ……」
アズールの濃紺のローブ。
その左胸、心臓のすぐ下に。
ぽっかりと、向こう側が見えるほどの風穴が開いていた。
「ガハッ……!」
アズールの口から、大量の血が吐き出された。
熱線は彼の胸を貫通していた。
通常なら高熱で傷口が塞がるはずが、あまりの高出力に周囲の肉と血管が弾け飛び、傷口からは止めどなく鮮血が噴き出している。
「嘘……嘘、でしょ……?」
濃紺のローブが、みるみるうちに赤く染まっていく。
生命が、流れ出していく。
わたしの手が震える。押さえようとしても、指の間から温かい血が溢れてくる。
「アズ……ール……?」
状況が理解できない。
どうして?
だって、わたしを守ってくれていたはずでしょ?
風は完璧だった。防御壁も展開していたはずだ。
『――ボクの風は、あなたを傷つけるもの全てを弾き飛ばし、必ず目的地へと送り届けます』
彼の言葉が蘇る。
彼は全精力を、魔力の全てを、わたしを守る『風』と、昇降機を守る『氷壁』に注ぎ込んでいた。
その制御を完璧にするために。
たった一発。
防御の隙間を縫って飛来した一撃を、避けることも、防ぐこともせず――。
わたしへの風を維持して。
胸を貫かれた瞬間も、彼は激痛に耐え、悲鳴を血と共に飲み込み、わたしを運び続けていたというの?
「アズール!アズール!!」
わたしは彼の手を握りしめた。血に濡れたその手は、氷のように冷たく、震えている。
「ミ……リア、さ……ま……」
焦点の定まらない瞳が、声のする方へわずかに動く。
肺が破れているのか、ヒューヒューという異音混じりの、今にも消え入りそうな声。
「……無事、で……す、か……」
「馬鹿っ……!自分の心配をしなさいよ!」
涙が溢れて止まらなかった。
胸に風穴が開くほどの致命傷を負ってなお、彼が最期に気にしたのは、わたしの安否だった。
賢者サマのくせに。計算高い効率主義者のくせに。
ちっとも合理的じゃない!
「……アズール!おい、しっかりしろ!!」
ブレイズの悲痛な叫びが、静寂の遺跡に虚しく木霊した。
アズールの瞳から、ゆっくりと光が失われていく。




