第27話 機能不全
ここ数日、あの潔癖で合理性の塊だった賢者サマの様子が、明らかにおかしい。
事の始まりは、とある森の小道でのことだった。
「あら、綺麗」
わたしは移動中、ふと足元に咲いていた青い野花に目を留め、何気なくつぶやいた。
ただの独り言だった。露に濡れてひっそりと咲くその姿が、誰かの瞳の色に似ているな、と思っただけの些細な感傷。
翌朝、わたしは目の前の光景に絶句した。
「……おはようございます、ミリア様」
目の前には、抱えきれないほどの巨大な花束を突き出すアズールの姿があった。
いつもの完璧に整えられたローブは泥だらけで、目の下には深い隈がある。まさか、一晩中森を駆けずり回っていたというの?
「あ、アズール?これは……?」
「……あなたが、その、綺麗だと言っていたので」
彼は視線を泳がせながら、早口でまくし立てる。
「植生分布を調査したところ、この周辺に群生していることが判明しました。一輪だけでは標本として不十分ですし、枯れた際のリスクヘッジも考慮して、視界に入る全ての個体を採取するのが最も効率的かと判断しまして」
彼は真顔でそう言い放った。
「非効率だ」と切り捨てるはずの彼が、泥にまみれて花を摘むなんて。
わたしが苦笑しながら受け取ったそれは、ずしりと重い。
彼は耳まで真っ赤にして、「……必要なら、またいつでも言ってください」とそっぽを向いた。
◇
「……アズール」
川辺で革袋に水を汲んでいたわたしは、背後の茂みに向かって声をかけた。
「隠れているつもりでしょうけど、気配で分かるわよ。何をしているの?」
ガサリ、と茂みが揺れ、アズールがバツが悪そうに姿を現した。
彼は咳払いを一つすると、視線を泳がせながら早口でまくし立てた。
「誤解しないでください。これは、リスク管理の一環です。水場は魔物が潜みやすい危険地帯だ。あなたが無防備に背中を晒している隙に襲撃されるかもしれません。ボクはあくまで、パーティの『資産』を守るために……」
「ここ、見晴らしの良い浅瀬よ?生き物なんてメダカくらいしかいないわ」
「ゆ、油断大敵です!メダカ型の凶悪な新種がいるかもしれない!」
苦しすぎる。
天下の賢者サマが、そんな子供のような言い訳をするなんて。
以前なら「自己管理くらいしてください」と冷たく突き放していただろうに。
……なんなの、一体。
◇
極めつけは、休憩中の出来事だった。
アズールが熱心に読み耽っている魔導書が気になり、わたしは後ろからひょいと覗き込んだ。
「ねえ、今のページ。古代ルーンの『風の条文』よね?独自の解釈が加えてあるみたいだけど……」
わたしが彼の肩越しに顔を寄せ、指先でページをなぞった瞬間。
アズールの肩がビクリと大きく跳ねた。
「っ、み、ミリア、さま……!?」
「ここ、どういう理論なの?教えて、賢者サマ」
耳元で囁くと、彼の耳がみるみるうちに茹で上がったように赤く染まっていく。
彼はバタン!と音を立てて本を閉じ、逃げるように身を引いた。
「ち、近いです!パーソナルスペースの侵害だ!」
「あら、いつものあなたなら『学習意欲は評価します』とか言って、長々講釈を垂れるじゃない」
「い、今は駄目です!思考回路にノイズが……ああもう、とにかく離れてください!」
知性も論理もどこへやら。
目を回さんばかりに動揺する彼を見て、わたしは首を傾げた。
いつもなら、「この解釈については諸説ありましてね」と得意げに講釈を垂れてくるはずなのに。
「アズール、顔が赤いわよ?熱でもあるの?」
心配になって額に手を伸ばそうとすると、彼は「ひっ!」と情けない声を上げてのけぞった。
「だ、大丈夫です!触らないでください!」
彼はそのまま膝を抱え、ブツブツと何か呪文のようなものを唱え始めた。
知的な会話どころではない。完全に機能不全だ。
◇
「……おい、アズール。てめえ、さっきから何イライラしてんだ?」
ブレイズが不思議そうに尋ねるのも無理はない。
言いながら、ブレイズはわたしの頬にちゅッと音を立てて口づけた。
いつものじゃれ合い。
けれど、その瞬間。
ピキッ。
アズールの周囲の空気が、目に見えて凍りついた。
さっきまでのおどおどした態度は消え失せ、底冷えするような視線がブレイズに突き刺さる。
「……不愉快です」
「あ?」
「公共の場における過度な接触は、チームの風紀を乱し、士気を低下させる要因となります。直ちに離れなさい」
「はっ、何言ってんだ。嫉妬か?見苦しいぜ」
「嫉妬などという非論理的な感情ではありません!これはあくまで、効率的な組織運営のための提言であり、衛生上の観点からも、あなたの汗臭い腕がミリア様に触れることは推奨されないと言っているのです!」
早口で屁理屈を並べ立てるアズール。
その目は据わっていて、杖を持つ手が微かに震えている。
ブレイズと顔を見合わせる。
「……なぁミリア。あいつ、なんか変なモンでも食ったか?」
「さあ……。でも、前よりずっと『人間』らしくなった気はするわね」
わたしたちは困惑しつつも、その変化が悪いものではないことを、なんとなく感じ取っていた。




