第26話 反転 <アズール視点>
『沈黙の炉』への旅路の途中、補給のために立ち寄った、小さな宿場町。
兄さんは「喉の渇きを潤してくる」などと嘯いて、到着するなり安酒場へと姿を消した。相変わらず、欲求に忠実な動物だ。
ボクは村外れの木陰にあるベンチに腰を下ろし、ヴァルガスから受け取った『沈黙の炉』に関する資料を整理していた。
非効率極まりない。
あの筋肉の塊がエールを浴びている間に、ボクがこうしてリスク計算とルート選定を行わなければならないのだから。
ふと、視線を上げる。
広場の隅で、ミリア様が立ち尽くしているのが見えた。
彼女は何をするでもなく、ただぼんやりと、駆け回る子供たちを目で追っていた。
……珍しい。
常に目的を持って動き、遺跡のためならなりふり構わない彼女が、あんな生産性のない時間を過ごしているとは。
子供たちの集団が、笑いながら駆けていく。
その最後尾で、小さな女の子が石畳に足を取られ、派手に転んだ。
鈍い音と共に、手に持っていた粗末な人形が地面に叩きつけられ、首がぽろりと折れる。
女の子は痛みに顔を歪め、そして壊れた人形を見て、絶望に顔をくしゃくしゃにした。
その目から大粒の涙が次々とこぼれ落ちる。
「…………」
ボクの胸の奥が、嫌な音を立てて軋んだ。
泣いても、何も解決しない。
泣いている暇があるのなら、立ち上がり、行動に移せばいい。
既視感。
いつか見た光景だ。
遥か前を走り去っていく、黄金のたてがみ。
「早く来いよ、アズール!」と笑いながら、ボクが追いつけないことなど気づきもしない、太陽のような兄。
――彼は振り返らない。
太陽は影になど構わない。
その時、ミリア様が、動いた。
彼女は音もなく少女に歩み寄ると、旅装束が汚れるのも厭わず、地面に膝をついた。
泣きじゃくる少女の目線に合わせ、優しく頭を撫でる。
そして、折れた人形を拾い上げると、懐から遺跡探索用のワイヤーを取り出した。
器用な手つきで人形を直していく。
それだけではない。
彼女は道端に咲いていた名もなき野花を一輪摘むと、それを人形の胸元に、勲章のように飾ってあげたのだ。
「……さあ、もう大丈夫よ」
風に乗って、彼女の優しい声がボクの耳にも届く。
ミリア様は少女の手を引き、立ち上がらせる。
そして、先に行ってしまった子供たちの輪のところまで、ゆっくりと、少女の歩幅に合わせて歩いていった。
「おねえちゃん、ありがとう!」
別れ際、少女がミリア様の腰に抱きついた。
ミリア様は驚くこともなく、少女の背中に手を回し、ふわりと微笑んだ。
「――ッ!?」
ドクン、と、心臓が大きく脈打つ。
全身の血が、沸騰したかのように熱くなり、そして次の瞬間には氷のように冷たくなった。
ボクは、手にした羽ペンを取り落とした。
時が、止まったようだった。
その笑顔は、兄さんに向けられる艶やかな恋人の顔でも、ボクに向けられる知的な同志の顔でもなかった。
全ての傷を癒やし、全ての孤独を包むような、慈愛に満ちた聖母の微笑み。
……ああ。
ボクの中で何かが音を立てて崩れていく。
ボクはずっと、彼女を「資産」だと思っていた。
兄を超えるための強力な道具。
ボクの知性を証明するための、難解で美しいトロフィー。
解読し、支配し、ボクのものにすれば、あの太陽に勝てるのだと。
けれど、違う。
今、ボクの目の前にいるのは、そんな無機質な「モノ」ではない。
あの日。
兄の背中を見失い、暗い書庫で膝を抱えていたボク。
誰にも気づかれず、誰にも振り返られず、ただ「優秀な兄の弟」という仮面の下で泣いていたボク。
もし、あの時のボクの前に、彼女が現れてくれていたら。
彼女は、ボクのために膝をついてくれただろうか。
「遅い」と笑うのではなく、「効率が悪い」と切り捨てるのでもなく。
ただボクの歩幅に合わせて歩き、壊れかけたボクの心を直してくれただろうか。
ドクン、ドクン、ドクン。
なんだ。
これは、なんだ。
この、胸骨の内側を直接締め上げるような痛みは。
この、思考回路を焼き切らんばかりに駆け巡る熱は。
心臓が、痛いほどに脈打っている。
これは計算外だ。論理的ではない。
ただの子供への親切を見て、どうしてボクが救われたような気持ちになっているんだ。
「……ミリア、様」
視界が滲む。
彼女が、光に見えた。
太陽のような、焼き尽くし支配する光ではない。
暗い夜道で迷う子供の足元を、優しく照らし出す星々のような光。
『手に入れたい』。
その欲求の質が、劇的に変質していくのを感じる。
所有したいのではない。
側に、いたい。
この光に照らされたい。
ボクの孤独を、救ってほしい。
「……くっ」
ボクは左手で胸を押さえ、うずくまった。
熱い。身体の奥が、未知の感情で焼かれるようだ。
動揺で指先が震える。
ボクが、冷静沈着な「静謐の賢者」たるこのボクが、こんな非論理的な感情に振り回されるなんて。
けれど。
この胸の痛みは、決して不快ではなかった。
むしろ、手放したくないと強く思った。
――ボクは、間違っていた。
資産でも、トロフィーでもない。
彼女は、ボクの――救いだ。
遠くでミリア様が、子供たちに手を振っている。
その横顔を見つめながら、ボクの中で何かが決定的に壊れ、そして新しく生まれ変わる音がした。




