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第25話 屈辱 <アズール視点>

焚き火が爆ぜる音だけが、夜の静寂を支配している――はずだった。

ボクの背後から聞こえてくる、あの粘つくような水音がなければ。


「……ん……ぁ……ブレイズ……」


甘く、蕩けるようなミリア様の吐息。

それは、昼間にボクと学術的な議論を交わしていた時の理知的な声とは、まるで別人のものだった。


振り返る必要などない。

背後にある一本の巨木、その根元に敷かれた毛布の中で、二つの影が一つに重なり合っていることなど、嫌というほど気配で分かる。


衣擦れの音。

肌と肌が擦れ合う、微かな摩擦音。

そして、ちゅ、と唇が離れる濡れた音。


「あ……そこ、は……だめ……」


荒くなる息遣い。

そして、抑えようとしても漏れてしまう、濡れたような吐息。


ボクは膝の上で、魔導書を握りしめた。

ページがくしゃりと音を立てる。


耳を塞ぎたかった。

だが、ボクのプライドがそれを許さなかった。

耳を塞げば、それはボクが敗北を認め、現実から逃げ出したことになる。


……聞け。記憶しろ。これが現実だ。


ボクは自虐的に、その音に耳を澄ませた。

聞こえてくる甘い声の一つ一つが、熱した鉄串となってボクの心臓を刺し貫く。


ミリア様のあんな声、聞いたことがない。

ボクには向けらない、蕩けた声。

兄の名前を呼ぶ、愛おしさに満ちた響き。


「……汚らわしい」


黒い嫉妬が、内臓を食い荒らしていく。

こんな低俗な行為など、環境音ノイズの一つとして聞き流してみせる。

そう自分に言い聞かせながら、ボクはその夜、一睡もすることなく、焚き火の炎が燃え尽きるのをただ睨みつけ続けていた。


          ◇


翌朝。

一睡もできなかったボクとは対照的に、起きてきた二人の顔色は憎らしいほど艶やかだった。


「……兄さん」


「ああん?なんだよ、朝っぱらからシケた面しやがって」


兄は欠伸をしながら、上半身裸で水を飲んでいる。

その背中には、昨夜ミリア様がつけたであろう爪痕が、生々しく残っていた。


「今後の野営について提案があります。……安全管理の観点から、任務中の過度な接触は控えていただきたい」


声が震えないよう、細心の注意を払う。


「夜間の警戒レベルが下がりますし、何より……周囲への音による情報の漏洩リスクがあります。プロとして慎むべきだ」


精一杯の、正論による攻撃。


だが。


兄は水を飲み干すと、喉を鳴らして笑った。


「ハッ、なんだアズール。うるさくて眠れなかったか?」


「……!ボクは、リスク管理の話をして……」


「それともアレか?童貞坊やには、ちょっと刺激が強すぎたか?」

「――ッ!!」


頭の中が真っ白になった。

顔が一気に熱くなるのが分かった。

反論したい。ボクはそんな低俗なことに興味はないと。

だが、昨夜一睡もできなかったという事実が、何よりも雄弁にボクの動揺を物語ってしまっている。


「ブレイズ。言い過ぎよ」


ミリア様が苦笑しながら、ブレイズの腕を軽く叩く。

そして、ボクに向き直った。


「ごめんなさいね、アズール。……次は、もう少し声を抑えるわ」


彼女は、ふわりと微笑んだ。

その笑顔には、一切の悪意がない。

ただ、年下の弟を気遣うような。

大人の余裕と、優しさ。


それが、何よりもボクを傷つけた。


違う。そうじゃない。


ボクが求めているのは謝罪ではない。

「あなたに配慮して、声を抑えます」という気遣いなど、最大の屈辱でしかない。

ボクは完全に、二人の愛の巣の外側にいる「邪魔者」として扱われている。


「……結構です」


ボクは絞り出すように言った。

これ以上ここにいたら、惨めさで消滅してしまいそうだった。


「出発の準備をします。……さっさと片付けてください」


踵を返し、逃げるようにその場を離れる。

背後で、兄の忍び笑いと、ミリア様の「もう、意地悪しないの」という甘い声が聞こえた。


          ◇


帝都の職人街、その一角に佇む工房『鉄の心臓アイアン・ハート』。

その扉をくぐった瞬間、ボクを迎えたのは、肌を焦がすような熱気と、肺を黒く染めそうな煤の匂いだった。


「……最悪の環境ですね」


ボクは無意識にハンカチで口元を覆った。

絶え間なく響く鎚の音。飛び散る火花。知性のかけらもない、原始的な労働の現場だ。

ミリア様がここを贔屓にしていると聞いた時は耳を疑ったが、どうやら彼女の「良いもの」に対する嗅覚は、環境の劣悪さを度外視するらしい。


「おう、来たかミリア。待ちくたびれたぞ」


奥から現れたのは、岩塊が歩いているかのような男だった。

ヴァルガス。帝国一と噂される伝説の鍛冶師。

種族は人間のはずだが、その樽のような胴回りと、顔の半分を覆う剛毛の髭は、かつてこの地にいたというドワーフのそれを思わせる。


彼はミリア様を見つけると、煤けた顔をくしゃりと歪めて笑った。

だが、その視線がボクと兄さんにスライドした瞬間、工房の温度が氷点下まで下がった錯覚を覚えた。


「……で?その後ろの『荷物』はなんだ」


その視線は、不愉快極まりないものだった。

まるで鍛え上げた鋼の不純物を探すように、ボクたちの骨の髄まで透かして見ようとする、職人特有の傲慢な「鑑定」の目だ。


「……フン。図体ばかりでかくて脳みその足りなさそうな金ピカと、死んだ魚みてえな目をした青瓢箪か」


「ああん?誰が脳みそ足りないだって?」


兄さんが即座に反応し、殺気を放つ。

ボクも眉をひそめた。死んだ魚の目、だと?


「ミリアよ。お前、本当にこんな連中で大丈夫なのか?」


ヴァルガスはボクたちを完全に無視し、ミリア様に向かって忠告した。

その言葉の端々には、「大事なミリアに変な虫がついていないか」という、父親染みた警戒心が見え隠れしている。


「大丈夫よ、ヴァルガス。この人たちは信頼できる仲間よ。……今のところは、ね」


ミリア様が苦笑交じりにフォローを入れる。

その視線が、一瞬だけボクの顔の上を滑っていった。

ヴァルガスは渋々といった様子で頷くと、作業台の上に一枚の羊皮紙を叩きつけた。


「……いいだろう。仕事の話だ」


彼は太い腕を組み、厳めしい顔で告げた。


「依頼は一つ。『沈黙の炉』の最奥に眠る、『オリハルコンの槌』を持ってこい」


『沈黙の炉』。


かつてドワーフ族が築き、帝国の侵攻によって滅びた地下都市遺跡だ。

そこには彼らの技術の粋を集めた国宝級の武具が眠っているとされるが、侵入者を拒む極悪な罠と、主を失った自動防衛人形ゴーレムが徘徊する、最高難度の遺跡でもある。


「俺の、爺いの最後の夢を叶えてもらうための、たった一度の頼みだ」


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