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第24話 焦燥 <アズール視点>

「……36時間」


二人を待ち始めて、丸一日と半日。

表通りのカフェのテラス席で、ボクは冷めた紅茶を見つめ続けていた。

ボクのような「七賢者」の一人が、路傍の石のように待ちぼうけを食らうなど、前代未聞の失態だ。


「……あの野蛮人が」


カップを持つ指に力がこもり、陶器が悲鳴を上げる。

兄さんがボクを出し抜くために、強引にミリア様を連れ去ったことは明白だった。

あの単細胞な筋肉ダルマのことだ。「デートだ」などと嘯いて、無計画に森を彷徨っているに違いない。

非効率だ。あまりにも非効率すぎる。


「悪い悪い。ちょっと道に迷っちまってな」


聞き覚えのある、神経を逆撫でする低い声。

顔を上げると、そこには悪びれもせずニカッと笑う兄さんと、その隣に並ぶミリア様の姿があった。


「……『ちょっと』ですか。あなたの時間感覚は、相変わらず猿並みですね、兄さん」


「たかだか依頼を一つ受けるのに、どれだけ時間をかけているのです?簡単なお使いもできないのですか?あなたの無能さに付き合わされるミリア様の身にも……」


言いかけて、ボクは言葉を詰まらせた。

ミリア様の様子が、おかしい。


いつもの彼女なら、ここで「ええ、本当に迷惑したわ」と肩をすくめるか、「うるさいわね」とボクを一蹴するはずだ。


けれど。


「ごめんなさい、アズール」


彼女は、ボクの目を真っ直ぐに見て、殊勝にも謝罪の言葉を口にしたのだ。

それだけではない。

その唇には、ボクが見たこともないような――春の日差しをたっぷり浴びた花のような、柔らかく、甘い微笑みが浮かんでいた。


「少し……予定外のトラブルがあってね。待たせて悪かったわ」


ドクン、とボクの心臓が嫌な音を立てた。


……な、んですか。その表情は。


ボクの背筋に、得体の知れない悪寒が走る。

何かが変わった。決定的に。

ボクの知らないところで、世界の理が書き換えられてしまったかのような喪失感。


「トラブル、ですか」


ボクの視線が、無意識に彼女の身体を検分する。

怪我はないか。疲労の度合いは。魔力の消耗は。

そして、その視線が首元で止まった。


ゆるく開いた旅装束の襟元。

そこから覗く、雪のように白い肌の上に。

まるで焼き印のように刻まれた、赤紫色の鬱血痕。


「ッ――」


思考が、真っ白に染まった。

理解したくなかった。だが、僕の頭脳は瞬時にその「現象」の原因と過程を弾き出し、残酷な「解」を突きつけてくる。


あれは、吸血の痕だ。

野蛮な獣が、その鋭い牙を柔肌に突き立て、熱い舌を押し当て、独占欲のままに吸い上げた痕跡。


「……不潔ですね」


ボクの口から、呻くような言葉が漏れた。


「……あ?」


兄さんがピクリと眉を跳ね上げ、ミリア様の腰に手を回す。

その動作はあまりにも自然で、そして見せつけるようだった。

彼の太い指が、彼女の腰のラインに食い込む。ミリア様はそれを拒まない。むしろ、その熱に寄り添うように、自然と重心を彼の方へと預けている。


ああ、なんと嘆かわしい。


高潔なる至宝が。解読不能な聖典が。

あんな泥にまみれた野良犬の唾液で汚されるなど。

それは冒涜だ。彼女という存在の『価値』に対する、許されざる破壊行為だ。


ボクの胸の奥で、定義不能な苛立ちと焦燥が、黒い炎となって渦を巻いた。


嫉妬?


まさか。そんな人間的な感情ではない。

これは、貴重な美術品が粗雑に扱われたことへの義憤だ。

そうに決まっている。


          ◇


「見て、アズール」


ミリア様が羊皮紙を差し出した。

先程までの甘い空気は鳴りを潜め、その瞳には知的な光が戻っている。


「遺跡で見つけた碑文よ。ここの文法構造が特殊なの」


ミリア様が、期待に満ちた目でボクを見る。

対等な知性を持つ者への、信頼と敬意に満ちた眼差し。


「……なるほど」


ボクは羊皮紙を受け取り、その美しい筆跡を目で追った。


「これは魔力循環のシステムそのものを記述しているのですね。だとすれば、この『地脈』は比喩ではなく……」


「そう!やっぱりアズールなら分かってくれると思ったわ!」


ミリア様が嬉しそうに声を弾ませ、身を乗り出す。

ボクは退屈そうに酒を煽る野蛮な兄を一瞥し、優越感を噛み締める。


肉体は奪われても、彼女の魂の深淵にある知的な渇望を満たせるのはボクだけだ。

この高次元な対話こそがボクの勝機なのだと確信した……はずだったのに。


「おい、まだ終わらねえのか」


不意に、兄さんの太い腕がミリア様の腰に絡みついた。

ボクとミリア様の間にある神聖な学術的空間が、獣の熱気によって強引に食い破られる。


「ちょっとブレイズ、今いいところなのよ」


ミリア様は口では抗議するものの、その声には拒絶の色がない。それどころか、兄さんが耳元で何かを囁くと、くすぐったそうに身をよじり、頬を朱に染めて彼を見上げた。


「……ん、もう。後でって言ったじゃない」


「これ以上は待てねえよ」


兄さんはニヤリと笑い、あろうことかボクの目の前で、彼女のうなじに唇を寄せた。


……不愉快だ。


知らず知らず握りしめた拳に力がこもる。


学術的な議論の時、ミリア様はボクの方を向く。

だが、その瞳は「優秀な百科事典」を見る目だ。

ボクの「知性」は認められている。だが、彼女の「魂」と「肉体」が求めているのは、あの野蛮な「熱」なのだ。


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