第23話 本当の朝
彼の唇が触れるたび、わたしの中の「空っぽな不安」が、物理的な「愛の重み」で埋め尽くされていく。
鏡を見なくても分かる。今のわたしは、彼のつけた独占の証で彩られているはずだ。
ああ、愛されている。
こんなにも、求められている。
過去? 思い出?
そんなもの、今のわたしには必要ない。
だって、こんなにも熱く、苦しいほどに満たされている。
頭の中がトロトロに溶かされて、彼の名前以外、何も考えられなくなっていく。
「ミリア……愛してるぞ」
耳の奥に流し込まれる、熱い愛の言葉。
その響きが、わたしの魂を震わせる。
「ブレイズ……わたしを……」
わたしを、あなたの色にして。
過去も未来も、全てをあなたで埋め尽くして。
わたしの懇願に応えるように、彼がさらに強く、わたしを抱きすくめた。
互いの鼓動が一つに重なり、境界線が曖昧になっていく。
どこからが自分で、どこからが彼なのか分からなくなるほどに。
強く抱きしめられるたびに、わたしの空っぽだった心が、彼の熱と愛で満たされていく。
一年間の空白も、それ以前の闇も。
彼が名を呼ぶたびに、白く、熱く、上書きされていく。
今、この瞬間、すべてが彼の色に塗りつぶされていくのが分かった。
「ミリア……ッ! お前は、俺のもんだ……!」
「ブレイズ……!」
わたしは彼の広い背中に爪を立て、夢中でしがみついた。
もう、過去なんてどうでもいい。
わたしが何者かなんて、どうでもいい。
今、この熱い腕の中で、彼に愛され、彼を愛している「わたし」こそが、真実なのだから。
わたしは涙が滲む視界で、頭上に輝く星空と、それよりも眩しい黄金のライオンを見つめながら、その激情にすべてを委ねた。
◇
包み込まれるような熱気が、わたしを現実に引き戻す。
重たい瞼をゆっくりと持ち上げる。
視界いっぱいに広がっていたのは、朝日を浴びて黄金色に輝く、見慣れたライオンのたてがみ。
「……ブレイズ」
わたしの腰には、彼の丸太のような太い腕がしっかりと回されている。
逃さないとでも言うように、けれど、その力加減は驚くほど優しくわたしを捕らえて離さない。
至近距離にある彼の顔は、無防備で満ち足りた表情を浮かべていた。
——お腹一杯、食べられてしまったものね。
昨夜の、あの嵐のような激しさが嘘のようだ。
肌と肌が直に触れ合う場所から、彼の体温がじんわりと伝わってくる。
熱い。
火傷しそうなほどの熱量が、冷え切っていたわたしの芯を溶かし続けている。
記憶を失ってから、わたしにとって「朝」は、一日の中で最も恐ろしい時間だった。
目覚めた瞬間、自分が誰なのか、ここがどこなのか分からない、白い霧の中に放り出される感覚。
冷たいシーツの感触が、わたしに孤独を突きつけてくる。
けれど、今は違う。
「……暖かい」
白い霧なんて、どこにもない。
ここには、わたしを愛おしそうに抱きしめる腕があり、鼓膜を震わせる寝息があり、わたしを「俺の女」だと定義してくれた男がいる。
彼の胸には、わたしを守った証である大きな傷痕が痛々しく残っているけれど、規則正しく上下するその胸板は、彼が生きていることを教えてくれている。
……ああ、そうか。
わたしはそっと、彼のごつごつした指に、自分の指を絡ませた。
わたし、もう一人じゃないんだ。
わたしがここにいる理由は、この温もりだけで十分すぎるほどだ。
過去の記憶なんてなくても、この朝の光景だけで、わたしは生きていける。
そう思えるほどに、今のわたしは満たされていた。
「ブレイズ」
わたしはもう一度小さく呟くと、彼の逞しい胸板に頬を擦り寄せた。
彼が身じろぎし、無意識にわたしを抱き寄せる力が強まる。
その温もりに降伏するように、わたしは幸福な微睡みの中で目を閉じた。
「……大好きよ、わたしのライオンさん」
それは、わたしがこの世界で迎えた、初めての「本当の朝」だった。




