第19話 抜け駆けデート(2)
「……当たりだわ」
石造りの回廊に足を踏み入れた瞬間、わたしは確信した。
ひんやりとした空気。鼻腔をくすぐる乾いた石と、わずかなカビの匂い。
そして何より、この圧倒的な「手つかず」感。
入り口の封印が解かれていたから、盗掘されているかと心配したけれど、杞憂だったようだ。
内部の保存状態は奇跡的なほど良好だ。崩落もなく、床の敷石ひとつとっても、建設当時の幾何学模様を鮮明に残している。
「おいおい、鼻歌まじりかよ。遠足じゃねえんだぞ」
「静かにして。この空気感を味わっているのよ」
松明を掲げたブレイズが呆れたように肩をすくめるが、今のわたしには彼の減らず口さえBGMの一部にしか聞こえない。
わたしは壁際で足を止め、懐から羊皮紙とペンを取り出した。
「見て、ブレイズ。この回廊の構造……ただの通路じゃないわ。天井のアーチが音響を増幅させる『詠唱回廊』の造りになっている。それに、この壁のルーン文字!」
わたしはインク壺にペンを浸し、興奮に震える手でサラサラと羊皮紙にペンを走らせる。
「中世期に見られる、角張った書体……でも、文末の装飾が独特だわ。地方独自の訛りが含まれている。なんて愛おしいの……!」
サラサラ、サラサラ……。
ペン先が羊皮紙を走る音が、静寂な回廊に響く。
楽しい。
脳髄が痺れるほどに楽しい。
目の前の空間情報を脳内で三次元的に再構築し、それを二次元の紙の上に落とし込んでいく作業。
測量など必要ない。わたしの目と『遺跡喰らい』としての直感が、正確な縮尺をはじき出してくれる。
「……お前、ホントに楽しそうだな」
しばらくして、ブレイズがぽつりと漏らした。
彼はわたしが作業しやすいように松明の位置を調整しながら、壁に向かって独り言をブツブツ言い続けるわたしを見下ろしている。
「当たり前でしょ。こんな極上の『原典』を前にして、心が踊らないわけがないわ」
「俺にはただのミミズの這った跡にしか見えねえけどな」
「教養のないライオンさんにはそう見えるでしょうね」
軽口を叩き合いながら、ふと、わたしは小さく笑った。
クスリ、と。
「……なんだよ。急に笑って」
「ううん。ただ、もしここにあの潔癖な賢者サマがいたら、どうなっていただろうと思って」
もしアズールがいたら、きっとこう言うに違いない。
「ミリア様、ここでの滞在時間はリスクを高めます。拓本を取るか、記録は簡潔に行い、解析は安全な場所で行いましょう」。
あるいは、「効率を考え、手分けしてマッピングを済ませましょう。ボクが北区画を、あなたが南区画を」。
完璧で、合理的で、そして何より――わたしのこの「楽しみ」を、容赦なく奪っていっただろう。
「……あいつがいたら、今ごろ『非効率です』って説教の最中だろうな」
「ええ、間違いないわ」
わたしは筆を止めず、口元だけで笑みを深めた。
効率?知ったことじゃないわ。
わたしは今、この空間の空気を吸い、古代の職人の息遣いを感じながら、自分の手で記録を残したいの。
この無駄で贅沢な時間こそが、遺跡探索の醍醐味なのだから。
ふと視線を感じて顔を上げると、ブレイズがじっとこちらを見ていた。
松明の暖かな光に照らされたその瞳は、いつもの獰猛な光を潜め、どこか呆れたような、それでいて妙に優しい色を帯びていた。
まるで、はしゃぐ子供や、愛おしい小動物でも見るかのような。
「……なによ。文句ある?」
「いや?お前、石ころ相手にそんなデレデレした顔すんだなって思っただけだ」
「し、してないわよ!これは学術的な興奮で……」
「へいへい。気が済むまでやってろよ。護衛はしててやるからよ」
ブレイズはあくびを噛み殺しながら、ドカッと近くの瓦礫に腰を下ろした。
その無骨な優しさに、胸の奥がじんわりと温かくなる。
アズールの完璧なサポートも頼もしいけれど、今は、この単純で温かい沈黙が心地よかった。
「……ありがとう、ブレイズ」
わたしは小さく呟くと、再び愛しいルーン文字の世界へと没頭していった。
「この床のルーン、感圧式の起動術式ね……!複雑な偽装が施されているけれど、力の流れを逆算すれば……」
わたしは夢中でペンを走らせていた。その術式構造があまりに芸術的で、つい指先でそのラインをなぞってしまったのが運の尽きだった。
カチリ。
指先が沈む微かな感触。
思考が凍りつくより早く、身体が本能で弾かれた。
ヒュンッ!
鼻先数センチを、錆びついた刃が横切る。風圧で前髪が数本、ふわりと舞った。
「危なっ……!」
冷や汗が背中を伝う。間一髪だった。
けれど、古代の職人は性格が悪い。回避行動を取ったその着地点こそが、次なる罠の発動地点。
足元の石畳が沈み、反対側の壁から新たな殺意が射出される。
体勢を崩したわたしには、もう避ける術がない。
「――ッ!」
思わずギュッと目を閉じた、その時。
身体がふわりと浮き上がる。
ガギィンッ!!
激しい金属音と火花。
わたしは太い腕に抱き寄せられ、硬い胸板に押し付けられていた。
「……ったく。よそ見してっと怪我するぞ、ミリア」
頭上から降ってくる、呆れたような、でも安堵を含んだ低い声。
恐る恐る目を開けると、ブレイズが大剣で巨大なギロチンを受け止めていた。
鼻をくすぐる、彼特有の酒と汗と熱の匂い。
心臓の音がうるさい。これは恐怖のせい?それとも……。
わたしは真っ赤になりながら、彼の腕の中で小さく頷くしかなかった。




