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第15話 文法の話

翌朝。

冷んやりとした空気と共に目が覚めたわたしは、まだ寝息を立てている二人の男――特に、大の字になって眠る巨大なライオンを起こさないよう、音もなく立ち上がった。


『古代月光王の霊廟』。


普段なら観光客や、騒がしい学生たちでごった返している場所だ。

けれど今は、この広大な空間にわたし一人。

朝霧が立ち込める回廊。苔むした石畳。そして、誰の手垢もついていない静寂。

わたしは胸いっぱいに、カビと石の匂いを吸い込んだ。


「……おはよう。昨日は騒がしくしてごめんなさいね」


誰にも邪魔されず、思う存分、この子(遺跡)と向き合える。

こんな贅沢な時間は久しぶりだ。

わたしは足音を忍ばせ、昨日はじっくり見られなかった回廊の奥、王の生涯を描いたとされる壁画の前へと進んだ。


指先で、風化したレリーフをなぞる。

石の冷たさが心地いい。

ここに描かれているのは、古代語による叙事詩だ。賢者の塔の公式解説では『王が敵国を滅ぼし、太陽のごとく君臨した覇道の記録』と書かれているけれど……。


「おはようございます、ミリア様」


背後から、涼やかな声が降ってきた。

驚きはしなかった。

気配を感じていたから。

振り返ると、アズールが昨日の戦いの汚れなど微塵も感じさせない、整えられた姿で立っていた。


「早起きですね」


「誰かさんたちが起き出す前に、この静寂を楽しみたかったのよ」


「お邪魔でしたか?」


「ええ、とても」


わたしが素っ気なく答えても、アズールは気にした様子もなく、わたしの視線の先にある壁画へと目を向けた。


「……古代月光王の『覇道の章』ですね。賢者の塔でも、この壁画は貴重な資料として扱われています。特にこの第三節、『王は光を纏いて、闇を払う剣となる』という記述は、攻撃魔術の起源としても興味深い」


彼は流れるように解説を始めた。

その知識は正確で、教科書的だ。

だが、わたしは首を横に振った。


「それは違うわ、アズール」


「……ほう?」


わたしは壁画の隅、装飾の一部のように掘り込まれた小さな文字を指差した。


「ここを見て。この使役のニュアンスを含んた言い回し。ここは、『闇を払う』んじゃなくて、『闇を受け入れ、自らの光で照らす』と読むべきだわ」


アズールの夜空色の瞳が、驚きに見開かれる。

彼はわたしの指差した箇所に顔を近づけ、食い入るように見つめた。


「……なるほど。通常の使い方とは異なる、祭儀用の古語法ですか。だとすると、続く文脈の『支配』という言葉も……」


「そう、『統治』というよりは『調律』に近いわね。この王様は、力でねじ伏せたんじゃない。異なる文化を編み込むようにして、国をまとめていたのよ」


「素晴らしい……!」


アズールの声が弾んだ。

彼はわたしを見て、うっとりと微笑んだ。


「その解釈ならば、長年議論されていた第五節の矛盾が完全に解消されます!まさか、文法的なアプローチから王の政治思想そのものを再定義できるとは……!ミリア様、貴女の視点は、まさに過去と現在を繋ぐ鍵だ!」


「ふふ、ありがとう。それにね、こっちのレリーフの曲線も見て。この柔らかさ、当時の職人が王に抱いていた敬愛が伝わってくると思わない?」


「ええ。技術的な精緻さだけでなく、そこに込められた情動まで読み解くとは。……ボクは今まで、文字の羅列ばかりを見て、そこに息づく『声』を聞き逃していたようです」


気づけば、わたしたちは肩を並べて壁画に見入っていた。

わたしは彼への警戒を解いたわけではない。

昨夜の狂気的な独占欲を忘れたわけでもない。


けれど――心地よかった。

わたしのマニアックな視点を理解し、さらに深い知識で返してくれる相手。

この知的なラリーの快感は、あの筋肉ダルマには絶対に理解できない領域だ。


「……おい」


不機嫌極まりない地響きのような声が、わたしたちの知的な時間を引き裂いた。

振り返ると、寝癖を爆発させたブレイズが、恐ろしい形相で仁王立ちしていた。


「朝っぱらから何コソコソやってやがる。つーか、てめえ、ミリアに近づきすぎだ」


ブレイズがドカドカと歩み寄り、わたしとアズールの間に強引に割り込んだ。

その巨体から発せられる熱気が、ひんやりとした朝の空気を乱暴にかき回す。


「おはよう、ブレイズ。よく眠れた?」


「ああ、お前こそ、もう大丈夫か?」


彼はわたしを背中に隠すように立ち、アズールを睨みつけた。


「で?インテリ野郎が何の用だ。訳のわからねえ呪文でも吹き込んでたのか?」


「訳のわからない呪文、ですか」


アズールは、ブレイズに向けて口の端だけで笑っていた。

それは、わたしに向けていた穏やかなものとは全く違う。

冷たく、昏く、そして優越感に満ちた笑み。


「ボクたちは、この遺跡に刻まれた高尚な歴史と哲学について、意見を交換していただけですよ。兄さんには、少々……いいえ、永遠に理解できない『高次元』なお話でしたね」


「……ああん?」


ブレイズのこめかみに青筋が浮かぶ。


「力任せに剣を振り回すだけの貴方には、壁の落書きにしか見えないでしょう?ですが、ミリア様とボクには、そこにある『真理』が見えている。……残念でしたね、兄さん。彼女の魂の言葉を理解できるのは、ボクだけだ」


アズールは勝ち誇ったようにわたしに一礼し、優雅な仕草で踵を返した。


「では、朝食の準備をしてきますね、ミリア様。……続きはまた後ほど」


ブレイズは去りゆくアズールの背中に向かって、唸り声を上げている。


「……クソが。何なんだよ、あいつは」


「まあまあ。喧嘩しないで」


わたしはブレイズの腕を軽く叩いた。

彼は不満げにわたしを見下ろし、鼻を鳴らす。


「お前もだ。あんな奴と楽しそうに喋りやがって。……何話してたんだよ」


「ん?文法の話よ」


「……は?文法?」


ポカンとするブレイズを見て、わたしは思わず吹き出しそうになった。

やっぱり、この男には一生かかっても理解できないだろう。

でも、その単純さが、今は少しだけ愛おしくもある。


「なんでもないわ。さ、行きましょう。お腹空いたでしょ?」


わたしは彼を促し、アズールの後を追った。


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