第10話 フラッシュバック
「くそったれがァッ!」
ブレイズが咆哮と共に大剣を振り回す。
だが、遅い。いつものような烈風の如き速度がない。
キンッ、ガッ、と刃を弾く音が響くが、防ぎきれなかった刃が彼の腕や脚を切り裂き、鮮血が舞う。
「ブレイズ!」
「無駄ですよ。その檻の中では、あなた方はただの少し頑丈なだけの案山子に過ぎない」
アズールの指先が動き、彼が小さく詠唱するたび、不可視の刃が空気を切り裂く。
わたしとブレイズは防戦一方だった。身体が思考についてこない。
泥沼の中で舞うような、もどかしさと焦燥。
「おおおおおおおッ!」
ブレイズが吼えた。
彼は鉛のような身体を無理やり動かし、一直線にアズールへ突っ込んでいく。
馬鹿げた特攻?
いいえ、違う。彼の目が一瞬こちらを見る。
これは――わたしへの合図だ。
「思考が単純すぎるのですよ、兄さん」
アズールが冷ややかに迎撃する。
ブレイズが囮になり、アズールの注意を引きつけた、その瞬間。
わたしはセシリーを狙って駆けた。
彼女さえ無力化すれば、結界は解ける。
けれど――。
アズールは視線すら動かさず、左手をわたしに向けた。
「『氷よ』」
わたしの足元から、氷の壁が隆起する。
「ちっ……!」
氷壁に阻まれ、わたしが足を止める。
その足元に追撃の氷の矢が着弾し、ブーツを地面に縫いつけた。
アズールの反応速度が異常だ。ブレイズをあしらいながら、同時にわたしの動きまで封じてみせた。
あれは——風の魔術?
目を凝らすと、彼の周囲が僅かに揺らいでいる。
風の力で身体を強化しているとでもいうの?
答え合わせとでもいうように、アズールの身体がふわりと大剣を回避し、すれ違い様にブレイズに掌底を叩き込む。
「ぐっ……あ……っ!」
「……終わりです」
瓦礫に沈んだブレイズ。
氷に拘束されたわたし。
完全な敗北に見えた、その時。
「まだだ……まだ、終わってねえっ……!」
血塗れのブレイズが身を起こし、その手の大剣をアズールではなく――セシリーへと投擲した。
「セシリー!」
アズールが初めて焦りの声を上げ、振り返る。
分厚い氷壁が大剣を防ぎ、砕け散る轟音が広場を揺らす。
視界を覆う氷の礫。
ブレイズが命がけで作った「死角」。
今なら!
わたしは足を凍らせていた氷を強引に引きちぎり、床を蹴った。
痛みなどどうでもいい。
音もなく、影のように。アズールの背後へ。
彼が振り返った時には、もう遅い。
わたしの双剣の切っ先が、彼の白く美しい喉元に吸い付いていた。
「……チェックメイトよ、賢者サマ」
勝った。
そう確信した。
広間に、静寂が戻る。
アズールは、喉元に突きつけられた冷たい刃の感触を確かめるように、ゆっくりと視線を落とした。そして、目の前のわたしの顔を見上げる。
その双眸がうっとりと目を細められる。
「……素晴らしい」
次の瞬間、わたしの視界から彼の姿が消えた。
残像!?
人間が物理的に可能な速度じゃない。魔術による極限の身体強化――!
「がっ…!」
背後からの衝撃。
わたしは床に叩きつけられ、肺の中の空気をすべて吐き出した。
視界が明滅する。鉄の味が口の中に広がる。
「貴女のその瞳……ボクの計算を超え、抵抗し、その刃を突きつけてくる、その気高い輝き…ああ、なんて美しいんだろう」
アズールが、恍惚とした表情で近づいてくる。
「ボクの側に置き、毎日その瞳を眺めていたい。誰にも触れさせず、ガラスケースに飾り愛でていたい」
昏いガラス玉が、わたしの顔を覗き込む。
糸を引くような甘ったるい囁きが、耳元で粘つく。
彼はわたしの顎を強引に掴み上げ、喉元にナイフを押し当てた。
冷たい金属の感触と、それ以上に冷たい彼の指先。
「動くな、ブレイズ・クリフォード」
彼は身動きできないわたしを盾に、ブレイズを牽制する。
ブレイズが悔しげに顔を歪め、拳を震わせているのが見えた。
「実に滑稽だ。力こそが全てと信奉し、父を裏切り、家の名を捨てた愚かな獣の末路がこれですか」
アズールは、勝ち誇った笑みでブレイズを見下した。
彼は勝利に酔いしれているのか、次々と侮蔑の言葉をブレイズに叩きつける。
「貴方には、心底失望しましたよ、兄さん。その自慢の力も、囚われのお姫様の前では何の役にも立たないようだ」
「てめえッ!」
「安心なさい、反逆者には、帝国の法が然るべき罰を与えてくれる。貴方は、帝都で最も冷たくて暗い牢獄の片隅で、残りの一生を過ごすことになる」
そして、アズールは恍惚とした表情で、再びわたしへと向き直った。
「さあ、行きましょうか、ミリア。貴女にふさわしい、完璧な研究室へ」
彼の白い指が、わたしの肩へと伸びてくる。
美術品を鑑定するような、冷たくて、ねっとりとした手つき。
その指先が、肌に触れようとした、その瞬間。
バチッ。
頭の中で、何かが弾けた。
熱い鉄串を突き刺されたようなフラッシュバック。
『いい子だね、ミリア』
穏やかな声。
伸ばされる白い手。
わたしの意思に反して、右手が持ち上がる。
閃光。
記憶の奥底に封じ込めていた、暗い、暗い泥のような感情が溢れ出す。
――嫌。
誰かの言いなりになるのも。
誰かのモノとして扱われるのも。
わたしの意思は、わたしの心は、わたしの誇りは、わたしだけのものだ。
――触るな。
わたしの内側で、灼熱の奔流が渦を巻く。
何かが溢れようとしている。
ドクン、と心臓が早鐘を打ち、血液が沸騰する。
お前のような男が、気安く、わたしに触れるな!!
視界が、白く染まる。
ミシ……、ミシッ……!
空間が悲鳴を上げている。
広間を満たしていた黄金の光の檻が、内側からの凄まじい圧力に耐えきれず、軋むような音を立て始める。
賢者の塔の叡智を結集したはずの『静寂の檻』の表面に、蜘蛛の巣のような亀裂が、走り始める。
アズールの美貌から、笑みが消えた。




