第29話 繭の刻印
白い空間に、再び静寂が満ちる。
アスラは、まっすぐにイブキを見据えた。
「そなたの父と母――シンとルナが、我と出会った時の話をしよう」
その一言で、空気の質が変わった。鈍色の空と海が、再びゆっくりと色を失っていく。
◇
――十七年前。
ジレーザ帝国最北端。極寒の荒野に、巨大な爆心地が広がっていた。
各国から集められた調査団は、しばらく言葉を失っていた。
「……これが、例の爆心地か」
シン・ナガトは、防寒具の上からでも分かるほど身を乗り出し、爆心地を見上げていた。
爆心地の周辺には、調査団の他にジレーザ帝国の軍隊も配備されており、上空には複数のヘリが何度も行き来していた。
普段、この荒野に人の姿などはない。当然のことだが、この荒れ地に興味を持てるものがないからだ。
だが、今はその興味の対象であるはずの『隕石』がどこにも見当たらない。
今のところ放射線のような有害な物質も検出されてはいない。
本当に隕石が落下したのだろうか……。疑心暗鬼にかられながらも、シン・ナガトはあらゆる可能性に思いを馳せていた。
「かくれんぼが大好きな隕石のようね」
隣に立つルナが、白い息を吐きながら苦笑する。
普段から透き通るような白い肌のルナだが、この極寒のせいでさらに白くなったように見える。その寒さを凌ぐために、帽子とマスクをかぶっていたが、その隙間から見えるルナの鼻が少し赤くなっていた。
「そのようだね。けど、真っ赤なトナカイさんは見つかったようだ」
「えっ?」
わけのわからない返答をした、シンの顔を覗き込むルナ。
きょとんとした表情のルナを見たシンは、すこし笑みを浮かべながら自分の鼻をちょんと触った。
「あっ!」
シンの言っている意味をすぐに理解したルナは、顔を真っ赤っ赤にして抗議する。
「もお! またそうやってからかう!」
極寒の地には似つかわしくない、二人の笑い声が広がる。
その時だった――。
「ん!? 何か聞こえないか?」
「そうやってごまかっ……えっ? たしかに何か聞こえる。これは……歌?」
周りを見渡しては見るが、それらしき音の発信源は見当たらない。ましてや、ヘリが飛び交う音の中で聞こえることが不思議だった。
「どこから聞こえるんだ?」
シンは自分達以外にも聞こえている人がいないか、見渡してみた。
調査団のメンバーは、放射線量の計測や周辺土壌のサンプリングに追われていた。この音に気づいていそうな者は一人もいてなさそうだった。
「シン、向こうから聞こえない?」
ルナが指を指した方角は、爆心地の先の方角だった。シンも音が聞こえる方向に集中していると――たしかに爆心地の先の方だ。
「いってみようか」
シンが提案すると、ルナは肩をすくめた。
「またそうやって、勝手に決める」
文句を言いながらも、ルナの足取りは軽い。
シンは、ここまで来るのに乗ってきた四輪駆動車に目配せをする。他の調査員たちが計器の解析に集中している隙に、二人はその車に乗り込むと音の聞こえる方角へ走っていった。
◇
しばらく走っていると、音の大きさが変わってきた。
「やっぱり歌だよこれ! 女性っぽい声だね」
「……歌なのかな? 僕には呪文っぽく聞こえるけど」
あーだこーだと話しながら荒野を走っていると、音が突然止まってしまった。
「あれ? 聞こえなくなった」
「……」
荒野のど真ん中なので、遮蔽物のような物は何もない。バギーを停めて、もう一度耳を澄ましていると――。
「!! シン! 見て!!」
「なんだあれは!?」
ルナが指さす方向を見ると、地面から半透明の物体が浮かび上がってきた。
黒い支柱の形をした物体の表面には、規則正しい節目が刻まれている。とても自然物とは思えない造形だった。
支柱の動きが止まると、根元の部分にポッカリと長方形の穴が空いた。
「……これって、入れってこと?」
「いってみよう」
二人は戸惑うことなく、支柱の入口へと車を走らせた。
◇
中は、想像していたよりも広かった。
壁一面に走る見たこともない文字。淡く発光する通路。足を踏み入れるたびに、まるで自分たちの存在を認識されているような、奇妙な感覚があった。
「……なんだか、生きてるみたいね」
ルナが呟くと、シンは静かに頷いた。
「機械というより――生命体に近いのかもしれない」
通路の奥、円形の広間に辿り着いた時、二人は息を呑んだ。
中央に、それはあった。
人の背丈ほどの、繭のような物体。表面は液体のようにゆらめきながらも、決して形を崩さない。淡い光を内側から放ち、静かに、まるで呼吸をするように明滅を繰り返していた。
「……綺麗」
ルナが無意識に一歩、近づく。
「待って、ルナ」
シンが手を伸ばしかけたその時――繭が、応えるように強く輝いた。
二人の頭の中に、直接何かが流れ込んでくる。声ではない。もっと直接的な、意志そのものの伝達だった。
『――ようやく、参ったか』
二人は同時に、後ずさった。
「今の……」
「聞こえたわ、私にも」
繭の光がゆっくりと収まっていく。そして、まるで語りかけるように、再びその『声』が響いた。
『恐れることはない。我は――サダルマ・プンダリカ・アスラ。かつて、アナンダという文明を統べていた者だ』
◇
それから、どれほどの時間が経っただろうか。
シンとルナは、繭の傍らに座り込んだまま、アスラの語る話に耳を傾け続けていた。文明の興り、カルマという力、連合国との戦い、将軍の裏切り、そして――首都を保存するために自らの肉体を犠牲にしたこと。
「……そんな」
ルナは、両手で口を覆っていた。
「たった一人で、そんな重い選択をしたの?」
『そうするより他になかった』
アスラの声は、静かだった。
『民を生かすためならば、我という個の存在など、些細なことだ』
シンは、しばらく黙って繭を見つめていた。そして、ゆっくりと口を開く。
「……アスラ、一つ聞いてもいいかな」
『申せ』
「あなたの魂は、今もその繭の中にある。……それは、いつまでこのままなんだ?」
繭の光が、わずかに揺らいだ。
『分からぬ。この星を飛び立って、帰還するまでにどれほどの時が経ったのかも、正確には測れておらぬのだ。……我が魂は、いずれ新たな器を必要とするだろう。だが、それがいつになるのかは――』
言葉が、途切れる。
『我にも、分からぬ』
その沈黙の重さに、ルナは思わず繭に手を伸ばした。冷たいと思っていた表面は、想像していたよりも
温かかった。
「……ねえ、シン」
ルナが振り返る。その目には、既に決意のようなものが宿っていた。
「この人を、このまま置いていけない」
シンは、少しの間だけ驚いたような顔をしたが――やがて、いつもの飄々とした笑みを浮かべた。
「僕も、同じことを考えていたよ」
◇
二人は、調査団には何も報告しなかった。
支柱を発見したことも、繭の存在も、アスラという意志との接触も――すべてを胸の内に秘めたまま、表向きは「特に成果なし」として調査を終える。
だが、繭を秘密裏に持ち帰るという計画には、大きな問題があった。あまりにも目立つ大きさだったからだ。
「――我に、任せよ」
アスラの声が、二人の頭の中に響いた。
その瞬間、繭の表面が波打ち始めた。液体金属が渦を巻くように収縮していく。人の背丈ほどあった繭は、みるみるうちに小さくなり――やがて、掌に収まるほどの、小さな指輪の形へと姿を変えた。
「……指輪に?」
ルナが目を丸くする。
『我の器は、本来こういうものだ。今までは、そなたらを驚かせぬよう、あえて大きな姿を保っていただけのこと』
シンは、その変化を興味深そうに観察していた。
「液体金属……しかも、自在に形状変化できる。これは……」
「シン、また悪い顔してる」
「していないよ」
しれっと返すシンに、ルナは呆れたように笑った。
小さくなった指輪――アスラの魂を宿した器を、ルナはそっと自分の指にはめた。
ひやりとした感触が、すぐに体温に馴染んでいく。
「これで、いつも一緒にいられるわね」
『……感謝する』
アスラの声は、どこか照れくさそうに、それでいて確かな安堵を滲ませていた。
◇
帰国後、二人はアスラから語られたすべてを――アナンダ文明の真実、カルマという力の本質、そして連合国の残した『負の遺産』の可能性について、独自に調査を始めた。
誰にも頼らず。誰にも知られず。
それは、想像を絶するほど困難な道のりだった。だが、二人には確信があった。この事実を軽々しく公表すれば、世界中の権力者たちがカルマという力に群がり、悲劇が繰り返されるであろうことを。
そして、調査を進めていくうちに――二人の身に、ある変化が訪れた。
「……シン、これ」
ある夜、研究室でルナが自分の掌を見つめていた。その手のひらから、淡い光が漏れ出している。まるで、傷を治そうとするかのように。
「僕もだ」
シンもまた、自分の変化に気づいていた。まだ明確な力としては現れていない。だが、確かに何かが――これまでにはなかった『感覚』が、体の奥底に根付き始めていた。
『……ふむ』
指輪から、アスラの声が響く。
『やはり、そうなったか』
「アスラ、これは……」
二人の間にわずかな緊張感が走る。
『我と長く共にあった者に、カルマが芽吹くことがある。……原種を与えたわけではない。だが、我という存在そのものが、いわば触媒となったのだろう』
「触媒……」
『そなたらの魂に、元より力の萌芽があったのやもしれぬ。それが、我との共鳴によって目覚めた――そう考えるのが妥当だろう』
シンとルナは、顔を見合わせた。
驚きよりも、むしろ――どこか運命的な何かを感じていた。
◇
それから、月日が流れた。
二人の絆は、研究という共通の目的を超えて、深まっていった。
そしてある日――シンは、ルナに指輪を差し出した。
「……これ、僕の作った指輪」
「え?」
ルナが目を丸くする。
「アスラの器とは、また別の物だよ。心配しなくていい」
「もう、紛らわしいこと言わないでよ!」
ルナは頬を赤らめながら、シンの手から小さな箱を受け取った。
『……ようやくか』
もう一つの指輪――アスラの声が、どこか呆れたように、そして嬉しそうに響いた。
『そなたら、随分と遠回りをしたものだな』
「アスラまで!」
ルナの抗議に、シンは声を上げて笑った。
◇
結婚式は、ごく身内だけのささやかなものだった。
そして、それから間もなく――ルナの体に、新たな命が宿った。
「シン……私、赤ちゃんができたみたい」
その報告を受けたシンは、しばらくの間、言葉を失っていた。そして、ゆっくりとルナを抱きしめた。
「……ありがとう、ルナ」
『祝着至極』
指輪の中から、アスラの声が静かに響く。
『その子が、どのような運命を辿るのか――我には、まだ分からぬ。だが』
声が、わずかに重みを増した。
『我が、そなたらの傍にいる限り――決して、一人にはさせぬ』
窓の外には、穏やかな夜空が広がっていた。
◇
やがて、イブキという名の小さな命が、この世に生まれ落ちた。
「……こんなに、小さいのね」
ルナは、胸に抱いた赤子を見つめながら、声を震わせていた。皺だらけの小さな手が、母の指をきつく握りしめている。
「僕らの娘だ」
シンは、その光景をどこか信じられないような顔で眺めていた。数々の困難な研究を成し遂げてきた男が、この瞬間だけは、ただの一人の父親としてそこに立ち尽くしていた。
『……立派な産声であったな』
指輪から響くその響きには、いつもとは違う柔らかさがにじんでいた。
「アスラも、聞いてくれてたのね」
「当然だろう」
ルナの問いに、シンが横から茶々を入れる。
「もう、シンってば」
三人――いや、指輪の中のアスラも含めれば四人の、穏やかな時間が始まった。
◇
イブキは、よく笑う子供だった。
泣くよりも先に、周りの大人たちの顔を見て、きょとんとした表情を浮かべる。そのたびに、シンとルナは顔を見合わせて笑った。
「この子、シンに似て何でも観察するのが好きみたい」
「ルナに似て、あまり物怖じしないところもあるよ」
研究室の片隅に置かれた小さなベビーベッドの中で、イブキはいつも機嫌よく手足を動かしていた。忙しい研究の合間を縫って、二人は交代でイブキをあやし、育てていった。
誰も知らない、指輪の中の存在に見守られながら。
――それは、何気ない、けれど確かに幸福な日々だった。
◇
その異変は、前触れもなく訪れた。
イブキが一歳の誕生日を迎えようとしていた、ある夜のことだった。
「……熱い」
ルナが、抱き上げたイブキの体温に眉をひそめた。額に触れた手のひらから、じんわりと汗が滲む。
「シン、この子――」
その声で駆け寄ったシンは、娘の顔を見て息を呑んだ。頬が異様に紅潮し、荒い呼吸を繰り返している。普段の赤子の発熱とは、明らかに何かが違った。
「体温計を」
計測された数字に、二人の顔から血の気が引いた。
赤子の発熱自体は珍しいことではない。だが、この上がり方は――尋常ではなかった。
ルナはすぐさま、自身のカルマ『治癒』を発動させる。
ルナの碧眼が輝きだすと、彼女の視界は顕微鏡で覗き込むように超高解像度となる。
「大丈夫よイブキ。すぐに治してあげるから」
『治癒』は原子、分子レベルまで観察、解析ができ、細胞が破壊されていれば再生することができる。ルナに医療知識はないが、問題のある場所を見つけると再生が開始されるのだ。だが――何度も解析を試みるが、悪いところが見つからない。
「どこも悪くない? そんなはずは――」
「ルナ、カルマの能力は僕らでも分からないことが多い。ここはとにかく病院へ行こう」
◇
病院へ駆け込んだ二人を待っていたのは、困惑した表情の医師たちだった。
「申し訳ありません。あらゆる検査をしましたが……原因が特定できません」
血液検査、画像診断、感染症の可能性――医師団があらゆる可能性を潰していく中、イブキの容体は一向に安定しなかった。
「緊急入院とし、集中治療室で経過を見ましょう」
医師の言葉に、ルナは崩れ落ちるようにその場にしゃがみ込んだ。
「……なんで。なんでなの」
ガラス越しに見える、小さな体に繋がれた無数の管。規則的な機械音だけが、静まり返った待合室に響いていた。
シンは、拳を強く握りしめたまま、身動きひとつできずにいた。世界中の誰よりも多くの知識を持ちながら、目の前の娘一人を救う術が見つからない――その事実が、彼を打ちのめしていた。
「……僕らは、何のために」
声が、掠れる。その時だった。
『――待て』
指輪から放たれた声は、いつもの余裕を欠いていた。張り詰めた、鋭い響きだった。
「アスラ……?」
『シン、ルナ。今すぐ、あの子の近くへ』
二人は、弾かれたように顔を上げた。
◇
集中治療室の傍らに立つと、指輪から淡い光が漏れ出し、ゆっくりと眠るイブキの体を包み込んでいく。それは治療とは異なる――もっと深い、魂そのものへの観測だった。
長い沈黙が続いた。
やがて、かすかに震えを帯びた声が、静寂を割った。
『……そういうことか』
「分かったの……?」
ルナが、すがるように問いかける。
『この子には――カルマが、目覚めておる』
「そんな……!」
ルナが口元を覆う。シンも、信じられないというように瞬きを繰り返した。
「アスラ、それは……おかしくないか? カルマの目覚めは、肉体と魂がある程度成熟してから起こるはずだ」
『そのとおりだが……』
言葉の端々に、初めて明確な困惑が滲んでいた。
『通常であれば、あり得ぬことだ。魂の器が幼すぎる。それにもかかわらず――この子の中で、力が芽吹こうとしている』
「原因は……」
『分からぬ。我と長く共にあったそなたらの血を引いていることが、あるいは関わっているのやもしれぬ。……だが、今それを論じている場合ではない』
続く言葉は、刃のように鋭さを増していた。
『幼き魂に、成熟した力が宿ろうとしている。器が耐えられぬのだ。この発熱は――魂が悲鳴を上げている証だ』
ルナは、震える手でガラスの向こうの娘を見つめた。
「……このままだと、どうなるの」
『このまま覚醒が進めば、器そのものが崩壊しかねぬ』
その一言に、部屋の空気が凍りついた。
「アスラ、方法はあるのか」
シンの問いに、アスラはしばらく沈黙した。
長い、長い沈黙だった。
『……一つだけ、ある』
「教えてくれ」
『我が魂を宿す、この器――繭の一部を、あの子の体内に移植する』
「――え?」
『この繭は、魂を安定させる機能を有しておる。それを分け与えることで、暴走しかけている魂を落ち着かせ、幼き器を補強することができるやもしれぬ』
ルナが息を呑む。
「でも、それって……アスラの魂に影響はないの? あなたは、それで大丈夫なの……?」
『……問題ない』
その一言に、揺らぎの色は微塵もなかった。
『我が身を分かつことに、迷いはない』
シンとルナは、互いの顔を見つめ合った。
言葉はいらなかった。
「……お願い、アスラ」
ルナが、震える声で頭を下げる。
「娘を、助けて」
指輪の光が、静かに強さを増していく。
『……承知した』
短い返答の奥に、確かな覚悟が滲んでいた。




