13
「ん……」
微かな光が、ヘレンの目元を照らす。その所為で、心地の良い微睡からヘレンは目覚め始めた。とろとろとした優しい眠りと、別れを告げる時間なのだろうか。
「ヘレン、起きたのか?」
「―――」
不意に聞こえた甘い声に、ヘレンはいい夢を見ていると思った。愛するノアの声を、夢でも聞けるなんて。額にかかった髪が、優しく払われる。
すり、と。その優しい指に額を押し付ける。
「まだ寝ているのか…? 可愛いなぁ」
「……」
そこでようやく、ヘレンはあれ、と思った。夢にしてはなんだが質感が伴っている。
「…のあ?」
「あぁ、起きたのか? 身体は大丈夫か?」
「―――!!!!」
夢ではないと気付いたヘレンは、慌てて身を起こし、ノアから距離をとろうとした。
「…私は眼福だからいいが…」
するとノアがそんなことを言った。はじめ、何を言われているのか分からなかったヘレンは、身体を撫でる空気がいつもよりひやりとしていることに気づき、そして自身の体を見下ろした。
「~~~!!」
昨夜のことを思い出し、そして自分の状況を把握し、と。ヘレンの脳内は処理しきれない情報でいっぱいになった。ばふっと、寝台に身体を沈める。
そんなヘレンを見ていたノアは、くすくすと笑いながらシーツをヘレンの背中にかけた。
「~~~い、いってください…!」
「言っただろう? まぁ、私としてはそのままでも構わなかったがな」
「!!」
ヘレンはもぞり、と首を動かしてノアを見上げ、そして固まる。自分が裸体ということは、必然的にノアもそうなる。つまり。
「の、ノア様、ふ、服を…!」
「ん? まだ明け方だし、いいだろう? それに今日は誰も起こしに来ないように言ってあるし」
「~~~」
そういうことではないと言いたい。
顔を真っ赤にして涙目で睨むヘレンに、ノアのはちみつ色の瞳は蕩けるように瞬いた。ノアはヘレンをシーツの上から抱き寄せる。
「私とこうするのは、嫌か?」
「そ、んな…! こと、あるわけ…」
嫌なのではない。ただただ恥ずかしいのだ。裸体を晒すのも、見るのも。
「…あまり、艶めいた話ではないんだがな」
「?」
緊張して固まっているヘレンに、ノアは苦笑を浮かべながら話し始める。
「これからのことだが、ターニャは結婚したらこの家を出ることになる。エメリオは、私に何かしらがない限り私のスペアとして私の補佐に回ってもらう」
「はい」
「ヘレン、君には公爵夫人として、カロリアンの貴族社会に馴染んでもらわねばいけなくなる…。正直、大変だろうと思う」
「…覚悟のうえです」
ヘレンが表情を引き締めながら言うと、ノアはヘレンの髪を梳いた。
「あぁ…言葉が足りなかったな…。私や屋敷の者たちはヘレンの味方だ。だから、無理をしてほしくない。辛いと思ったらすぐに言いなさい。…解決できるかは…分からないが」
「ノア様…」
「無責任に全てから守ると言えなくてすまない…。だが、君が大変に思っているのであれば、辛いと感じているのであれば、それを教えてほしい。一緒に解決策を考えることくらいなら、私でもできる」
「はい」
二人の間には、先ほどまでの甘い空気はなく、少しだけピリリとしていた。
「……少しは緊張がほぐれたか?」
「え?」
事務的な話をしたせいというか、現実的な話をしたためにヘレンからは緊張がなくなっていた。そのことに気づいたノアは、ほっとしたように笑みを浮かべながら抱きしめる腕に力を込めた。
「ノア様?」
「様なんてつけないで呼んでくれないか? 私の妻なのだから」
「っ……の、あ」
「うん、いいな」
呼んでくれといわれて、呼ばないほどヘレンは意固地ではない。ただ、やはり今までの呼び方が慣れていたというのはある。
「私も駄目だな…。好きな女性の緊張を和らげる方法一つまともに知らない」
「?」
ノアの言っていることが良く理解できなかったヘレンは、疑問をそのまま表情に乗せる。
「せっかく、ゆっくりできる朝なんだ…。もっとゆっくりしよう?」
そう言いながら、ノアはヘレンの髪に自身の頬を擦り付けた。そして今更ながらに、ノアが自分に甘えているのかもしれないとヘレンは気づいた。
もぞり、と腕を抜け出させると、ノアの紺色の髪を梳く。見える肌色の多さに恥ずかしさがなくなることはないが、ノアの言うことももっともなのかもしれない。
きっと、これからの毎日の日々は目まぐるしく過ぎていくのだろうと何となく思った。そしてそれが幸せというものなのかもしれない、とも。
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「お母様!!」
「母上…!」
ノアとヘレンの結婚式の三週間後、ヴィノーチェ家は酷く慌ただしくしていた。それもそのはず。先代当主のエルサの容態が悪化したのだ。
エルサは朦朧とする意識の中で、見えるその面々に必死に目を凝らした。
息はし辛いし、目は霞む。身体に力が入らず、手を伸ばすことすらも億劫だ。出来るならもっと生きたいと願うが、そうはいかないことを自分がよく知っている。
「いや…! 死なないで!!」
ターニャがぼろぼろと泣きながら手を握る。
「お、おか、お母様…!」
その隣ではエメリオがターニャの手の上から手を握ってくる。
「母上…っ」
反対側には、ノアが苦悶の表情を浮かべているのが、なんとなくわかる。
「お義母様…!」
その隣には、ヘレンがいるのだろう。声からして、泣いているなぁ。
きっと傍には、ずっと共に戦ってきてくれたトンクスがいるのだろう。あいつのことだ。きっと泣くまいと必死になっていそうだ。ヴィヴィアンヌはどうだろうか。思えば、彼女が泣いているところは見たことがないかもしれないなぁ。
エルサは、走馬灯なようなものを見ていた。
愛した夫、ザクセン。そして生まれたノアとターニャにエメリオ。彼を亡くした日。トンクスと泣き酒を交わした日。ヴィヴィアンヌに怒られた日。ヘレンが来た日。失敗した日、成功した日。
嬉しかった日、悲しかった日。悔しかった日、笑った日、泣いた日。
後悔してやり直したいと思った時もあった。ザクセンに先立たれた日、時が戻ってくれないかと噎び泣いたこともあった。ノアたちが生まれた時、生きていて良かったと、愛しい存在に出会えたと神に感謝したときもあった。
すべてが、今思えばエルサの人生を彩っていたと、ようやく気付けた。
後悔しないように生きてきたつもりだ。
誰にも後ろ指さされないように生きようと、必死になって駆けてきた人生だった。
「―――あぁ…まだ、いき、たい…なぁ…」
それでも、まだ生きたいという欲望が溢れてくる。
ぼろぼろと、涙が零れてきた。こんな姿、見せたくなかったのに。
「たー、にゃ、の…けっこ…みた、かった、なぁ…エメ…お嫁…」
「お母様!!」
後悔はまだある。ノアたちの子供と会いたかった。トンクスやヴィヴィアンヌと共に、子供たちともっと戯れたかった。愛しつくしたつもりだが、まだまだ足りないと、今更ながらに思う。
ああしていればよかった、こうしていればよかった。そんなこと、自分は思わないと思っていた。けれど、違った。
人はなんて貪欲なんだろうか。
「ノア…ヘレ、ン……」
辛うじて動く首で、ノアとヘレンのいる方向を見る。そこには、目を赤くしたヘレンと、険しい表情をしたノアがいる。ノアのことだ、きっと泣くまいと眉間に皺を寄せているせいで険しい表情をしているのだろうと思う。…それがわかるくらいには、大切に思ってきた。
「お、お義母、さま…!!」
微かに掠れた声で、ヘレンが手を握ってくる。可愛い義娘だ。とてもいい嫁をノアは貰ったと思う。少し離れたところでは、ターニャとエメリオが声すら上げられずに泣いているのがわかる。あぁ、悲しませている。
「母上……」
ノアには苦労かけてばかりだったなぁと思う。自分が不甲斐ないばかりに、愛しい我が子に我慢ばかりさせてしまっていただろう。
「ふ……、のあ、幸せに、おなり…ヘレンと、一緒に…」
「っ…は、い」
「だい、じょうぶ…お前たち、なら…」
「はい…」
「苦労、ばかり、かけて…すまなかった…ね」
「そんなこと、ありません…!!」
視界にトンクスとヴィヴィアンヌは見えないが、彼らのことだ。いつものように傍にいてくれているのだろう。思えば、自分の人生は人に恵まれた。全てがいい人ではなかった。それでも、今思い返せばいい人たちのことばかりだけが浮かぶ。
愛しい、人生だった。
息が、浅くなっていくのがわかる。視界も、どんどん狭くなってきた。
「お母様っ!!」
「母上!!」
手の感覚が、なくなってきた。握られているはずなのに。
―――あぁ、あぁ、おいて、いきたくない
「……お前、たちの…ははに、なれて…幸せ、だった…よ」
愛する人との間に生まれた可愛い我が子たち。ずっと付き添ってくれた使用人たち。これからヴィノーチェ家の一員になる人たちに、きっとこれから生まれてくるだろう子供たち。
「ママ!! わ、私も!! ママの子供で良かったぁああっ!!」
「僕、僕だってぇ…!!」
その言葉を聞けただけでも、良かった。
「あ、りが…と…少し、つかれ……た…寝る、ね……」
「~~っ、は、い…お義母様…ゆっくり、お休みにっ…なってください…」
「お休み…母上」
心の中は、不思議と落ち着いていた。
そしてエルサ・ヴィノーチェは、その生涯に幕を下ろした。
「―――ここ、は」
エルサは、いつになく軽い体に戸惑いながらも自分は死んだのか、と理解する。霧がかったそこは、熱くも寒くない。素足で歩き始めれば、草のような何かを踏んでいる感触がした。
これからどうすればいいのか分からずに戸惑っていると。
「―――エルサ」
「?」
背後から声をかけられ、その声色に微かな懐かしさすら感じながら振り向くと。
「―――ざ、く…せん…?」
そこには、当の昔に先立たれた夫が、柔和な笑みを浮かべていた。ノアに似たその人は、ノアよりも年を取っていて、エルサにとっては懐かしさしか感じさせなかった。
「ザクセン…!!」
エルサは思わず駆けだして、その胸に飛び込んだ。
「ザクセン!! ザクセン…!!」
「うん、うん…。よく、頑張ったね、エルサ。先に逝ってしまってごめんね」
「馬鹿っ!! 馬鹿ぁ!! ずっと、ずっと、寂しかった…!!」
誰にも言えなかったが、本当はずっと寂しかった。どうして先に逝ってしまったのだと詰りたかった。
「うん、ごめんね。そして、あの子たちをあんなに立派に育ててくれて、本当にありがとう」
「っ…ひっく、ひっ……!」
「一緒にいこう? これからは、一緒だ」
「うん、うん…!」
エルサは涙を流しながら少女のような笑みを浮かべた。
ザクセンは、そんな妻を見て幸せそうに微笑みながら歩き出した。




