10
ノアは、たまに優しく甘やかしてくれる。
その言葉はまるで砂糖漬けのようで、今までそのような言葉を受けたことのないヘレンは、いつも戸惑ってしまう。
可愛いと言われればとても嬉しい。だがそれ以上に恥ずかしさが先に立ってしまう。
酔ったあの日、ノアが嘘をついたとは欠片も思っていない。だが、ヘレンは自分だけが翻弄されていることに少しだけ腹を立てていた。
ドレスにしても、何にしても、いつもヘレンだけがノアの言葉や行動に振り回されている。
ヘレンには、それが少しだけ悔しかった。
「ノアさま…」
「あ、あぁ」
「ノア様は、嫉妬、深いんですか?」
「ん?」
ノアは、ヘレンの口から何が出るのだろうと戦々恐々していたが、想像していたものとは全く違うそれに、一瞬何を言われたのだろうと思った。
「ま、まぁ、人並みには嫉妬する」
「…わたしの、ドレスに、口出すくらいに、ですか?」
いつになくたどたどしい言い方で話すヘレンに、ノアはぎょっとしながらヘレンを見る。彼女は、グラスを手のうちで弄びながら少しだけ唇を突き出していた。
可愛い。
頬は紅潮しており、その強い酒精に酔っているのだということがわかる。
「ヘレン、飲みなれていないものだと酔うだろう。水を飲むといい」
「わたしが! 聞いているの!」
「へ、ヘレン?」
いつになく幼い物言いに、ノアは戸惑いしか生まれなかった。どうして今日に限って、彼女は酔っているのだろうか。まさか、昨夜の自分への仕返しだろうか。
「答えてください、ノアさま」
「あ…そう、だな…。君の綺麗な肌を、私以外の男に見せたくないと、思っているよ」
「…でも、お屋敷では、違うんですよね?」
「うっ…」
自分の昨夜の失態が脳裏によみがえる。確かに、そう言った。
「そう、だな」
ヘレンはノアの返事を聞くと、ふふんと小さく鼻を鳴らした。正直に言おう、それすらも可愛くて仕方ない。だが、どうしてそのようなことを聞くのだろうか。
「ノア様、わたし…」
「へれん…!?」
隣に座っていたヘレンが、ノアの太ももに手を置いた。基本ノアから距離を詰めることはあるが、ヘレンから距離を詰められたことなどなかったので、たじたじになってしまう。
ヘレンはおろおろとしているノアが面白いのか、くすくすと笑っていた。
「ノア様が、私をとても可愛いって、言ってくれるの、とても、嬉しい」
「そ、そうか」
「うん。でも、ノアさまも、かわいい」
「私が、か?」
ヘレンはぐい、と体をノアに近づける。瞳の光彩すら覗き込めそうな距離に、ノアの喉がごくりと鳴った。相手は酔っている、だから、落ち着け、と何度も自分に言い聞かせるノアを他所に、ヘレンはとろりと表情を蕩けさせた。
「ノアさまの、はちみつ色の瞳も、大好き」
「紺色の、サラサラの髪も」
「とてもやさしいとこも」
「頑張り屋さんなところも」
「ぜんぶ、好き」
「~~~~!?」
正直に、理性を吹っ飛ばしたくなった。
宝石のような瞳は濡れ、頬は紅潮し、唇からは甘い吐息が漏れている。どう考えても、煽られているようにしか感じられない。
ノアは自分の欲望のままにヘレンの顔を近寄せようとしたが。
「あっ、これ、おいしいんですよ! ジュノーに頼んで、つくってもらったんです!」
ヘレンはノアの手をするりと避けると、テーブルの上にあった軽食に手を伸ばした。軽食といっても、お酒のおつまみなので重いものでない。
ノアは、行き場の失った手を下ろしつつ、もやもやとしながらも笑みを浮かべた。
「そうか…。私も頂こうか」
「はい!」
ヘレンは何が嬉しいのか、にこにことしている。
ノアは行き場のない熱を冷ますかのようにグラスを呷った。…欠片も収まることはなかったが。それに合わせたのか、ヘレンも少しだけ酒を飲む。そして料理に手を伸ばした。
「のあさま、はい、あーん」
「……? …!?」
自分で食すかと思ったそれを、ヘレンはノアの口元へ持ってきた。嬉しそうに微笑みながら、ノアが口を開けるのを待っているようだが、ノアはそれどころではなかった。
ノアの知るヘレンは、いつも恥ずかしがっていて、それでいて少しだけ距離がある。それが結婚する前だからということを知っているからこそ、それをたまに突くのが楽しかった。
だが、今のヘレンはどうだろうか。
「へ、ヘレン…?」
「食べて、くださらないの…?」
「――!!」
酔っていなければ、絶対にあり得ないだろう現状に、ノアは自分が都合のいい夢でも見ているのではないかと思い始めた。
ノアとていい年をした男だ。正直に言えば好いた女性と同じ屋根の下、欲望がないわけがない。だが、それにヘレンを付き合わせるわけにもいかず、時折ヘレンと甘い時間を過ごすことで何とかやり過ごしてきたのだ。
それを一瞬でぶち壊すようなヘレンの姿に、ノアはここに来るまで悩んでいたことすべてを忘れ去った。
その胸中には、ヘレン可愛い、美味しそうと、愛しいという言葉しかない。語彙力は完全になく、そしてその美味しそうがどういった意味なのかはノアしか知らない。
「ぁ…あー…」
ぱくり、と食べる。ヘレンの指が、少しだけノアの舌に当たった。ヘレンが好きだと言ったそれの味が、全く分からない。
「美味しいでしょう?」
ヘレンはまるで聖母のように微笑むと、自分の指先に欠片がついていることに気づいたのか、ぺろりと舐めた。もう一度言おう、ノアの舌が当たって濡れたそこを、舐めた。
ヴィノーチェ家当主の頭は、煩悩に塗れた。とてもではないが、誰にも見せられない姿だ。
「うま、い」
「よかった」
しかしヘレンはそんなノアの荒れた胸中など知らず、自分の分を手に取って食べた。ノアの脳内は、完全に落ちていた。ヘレンに墜落させられた。
「ヘレン―――」
大事にしたいという気持ちと、もっとこの可愛すぎる生き物を愛で倒したいという気持ちがノアを支配しそうになる。
しかし。
「あ、もうこんな時間…ノア様、ごめんなさい、夜遅くまで」
「え」
頬を赤らめたままのヘレンは、時計に目をやると悲しそうな顔をした。ヘレンの視線の方向にノアもやれば、確かにいい時間だ。
「マリのことをお話したかったんですけど、楽しくなって長居してしまいました…ごめんなさい」
「いや、気にしないでいい…時間ならまだ…」
「駄目ですよ、ノアさま、最近寝不足だって、イクスから聞いたんですから」
イクスを想像の中で殴ったノアは、ある意味仕方ないのかもしれない。
「では、お休みください、ノア様」
「え…あ、あぁ…」
「台車は私が持って行きますね」
「侍女に頼んでおくが…」
「私が無理を言って用意してもらったんですから、せめて厨房まで持って行きます」
酔っていたはずのヘレンは、きびきびと動き出す。本当は酔っていなかったのではないだろうかと考えてしまうほどだ。
ヘレンは台車を一度廊下に置くと、ぐたりとしているノアの傍へと近寄ってきた。色々と我慢を強いられているノアは、もうなんでも来いという投げやりな気持ちにすらなっていた。
「ノア様、ゆっくりお休みくださいね」
―――ちゅ
「―――」
ヘレンはノアの頬に口づけを落とすと、悪戯っ子のように小さな笑みを浮かべた。だがその頬は赤い。
「―――きのうの、しかえし、です」
ヘレンはそれだけ言うと、一礼して部屋を後にした。
「……~~~~」
してやられた。それだけしか思えなかった。
昨日の仕返し、と言っていた。怒っているわけではないとは思うが、きっとヘレンにも何かしら思うことがあったのだろう。
そしてその仕返しは十分だったと思う。ヘレンが離れなければ、きっとノアは越えてはいけない一線を越えてしまいそうだった。越えなくてよかったと思う反面、生殺し状態だ。ヘレンに嫌われていなくて良かったと思うが、男の事情的には辛いものがある。
ちょっとだけヘレンを恨みたくもなるが、それすらも愛おしく感じてしまう自分は末期なのだろうか。
「はぁーー……」
身の内に溜まった熱を吐き出すかのように、深い息を吐く。しかし全く冷めない。ちらりと先ほどのヘレンを思い出せば、更に上がりそうだ。
ノアは置いて行かれたグラスを呷る。酔ってしまいたい気持ちだが、なぜか全く酔えない。
一人残されたノアは、悶々とした気持ちを抱えたまま、自室へと戻っていった。
「うまく、出来たのかしら…?」
自室に戻ったヘレンは、ばくばくとなる心臓に手を当てながらそう呟いた。イリーヌが色々と教えてくれたことを実践してみたが、手応えはあったような気がする。…あくまでも気がするだけだが。
「ふふっ…ノア様、赤くなってたわ…」
異性の太ももに手を置くなんてことをしたことがなかったが、効果はあったのだろう。初めはそんなことできないとイリーヌに言ったが、絶対に効果があると豪語され、してしまった。
いつも翻弄されてばかりの自分だが、今日はノアを翻弄できた、と一人達成感に手を握る。それに、いつも思っていても口にできなかったことも、言えた。
少量の酒であれば気を大きくして、いつもは言えないことを言えるようになることがあると教えてくれたイリーヌには感謝だ。
「私がノア様を翻弄できるなるなんて……」
一度だって、そのようなこと考えたことなどなかったのに。何故かノアに対しては色々な感情が生まれていく。
そうしてイライアスへの思いとの違いに気づく。イライアスは、守ってくれる人だった。自分を保護し、真綿にくるむように外の世界から守ってくれた。それがヘレンという個人に対してのものでなくとも、あの時のヘレンはその優しさに救われ、想いを寄せたのだ。
だが、ノアを好きになった今ならわかる。
ヘレンは、イライアスが自分を守ってくれるから、好きになったのだ。
イライアスもヘレンを他の誰かに重ねるということをしたが、ヘレンも似たようなものだと今更ながらに思う。
その点、ノアは違った。ノアには頼りたいし、頼られたい。守りたいし、守られたい。
イライアスのように一方的な関係ではなく、互いを尊重した関係を築きたいのだ。今回の件は、ちょっとやり過ぎたかもしれないと思わなくもないが、今までのノアの行動を考えれば可愛いものだろう。
「今度は、何をしようかしら…」
いつもは出来ない。恥ずかしすぎて。でも、たまにあのように甘えるのは、とてもいい。
ノアが自室で悶々としている間、ヘレンは清々しさすら覚える気持ちで寝台に横になった。




