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「戻った、夕食はまだだろう?」
「お帰りなさいませ、ノア様。まずはお召し物を」
「あ、あぁ…すまない」
その日、仕事を出来る限り早く終えたノアは、帰宅してすぐにトンクスに尋ねた。詳細を知っているトンクスは、苦笑いを浮かべながらも外套を預かる。
「夕食はまだですよ。あと一時間ほどの予定です」
「そうか。久しぶりに皆で食べられるな」
「ようございました。しかしまずは湯あみが先かと」
トンクスは埃で汚れているノアを見ながら言う。そしてノアも自分が大分焦っていることにようやく気付き、落ち着くためにも一度深呼吸をした。
「そうだな……ところで、ヘレンたちは今日は何をしていたんだ?」
「ヘレン様とターニャ様は、エルサ様のお部屋でお茶会のドレスを決められておいででした。エメリオ様は先生と勉強したのち、自主勉強をして鍛錬をしておられましたよ」
「そうか。エメリオは無理をしていないか?」
「今のところは。ですが一度お声をお掛けして差し上げたほうがよろしいかと思います」
「わかった。さっぱりしたらエメリオのところに行く。そう伝えておいてくれないか?」
「かしこまりました」
トンクスはそのままノアの後に続き、ノアの私室へと入る。
「……」
「ノア様、お聞きになりたいことがあるのでしたらお早めに」
「っ……その、ヘレンは、私のことを何か言っていなかったか?」
トンクスは初めから気づいていたらしく、あえてノアに助け舟を出してくれた。正直、どうやって切り出したらいいのか分からなかったノアは、すぐさまそれに乗る。しかし、そこで簡単に答えてはくれないのがトンクスだった。
「そうですね……時折イリーヌたちと何かを話していたようですが…詳細までは」
「イリーヌたちとか? それに私は関係しているのか?」
「少し聞こえただけですが、ノア様のお名前を聞きましたので」
「!」
やはり、ヘレンは怒っているのだろうか。結婚式まで手を出さないように自制していたというのに、まさか酒に酔って出されそうになったことを、イリーヌたちに相談しているのだろうか。もしそうだとしたら、今後結婚まで寝酒に付き合うことをどう断ればいいのか、相談しているのだろうか。あまり会う時間がなく、二人っきりになれる時間なのに。
「くっ……」
ノアはついそう呻いてしまった。自分が悪い。圧倒的に、疲れていたからといって、あのようにしてはいけなかった。真綿に包むように大事にしていたいと思っていたというのに、自分の欲望を優先してしまった。
そんなノアを、トンクスは面白そうに見ている。が、自分でいっぱいなノアはもちろん気付くはずもない。
「ノア様、湯あみのご用意はできておりますので。私はエメリオ様のところへ行ってまいります」
「あぁ…頼んだ」
ずぅん、と落ち込んだ様子のノアは、トンクスの言葉におざなりに返す。もし、これでトンクスを見ていれば自分の予想が違うかもしれないという希望が持てたかもしれないが、結局ノアは気づくことはなかった。
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「お兄様! 今日はお早いのね!」
「あぁ。いつも寂しくさせてすまない」
「そんなことないわ。お母様もいるし、ヘレンお義姉様もいるもの!」
「姉さま、僕は?」
「あら、だって、最近のエメリオは勉強ばかりしているじゃない」
「姉さまだって勉強しなよ!」
「私はお茶会のドレスを選んでいたの! 遊んでいるわけじゃないわよ?」
二人の掛け合いを見て、ああ帰ってきたんだとノアはしんみり思う。最近は特に忙しく、帰ってきても夕食は終わり、それどころか二人は既に夢の中のことが多かった。
「久しぶりに皆での食事なんだ。二人とも、そこまでにしておけ」
「「はぁ~い」」
そうしていると、ヘレンがやってきた。その瞬間、ノアの心臓がばくりと鳴る。表情を見る限り、怒っている様子はない。
「ノア様、お帰りなさいませ。お出迎え出来ずに申し訳ありません」
「い、いや、構わない。母上の様子は?」
「少しお疲れだったようで、もうお休みになっています」
「そうか…任せきりで済まないな」
「いいえ」
当たり障りのない会話をしたのち、四人はテーブルへとついた。それと共に、ベンとシャーリーも座る。そうして夕食は穏やかに過ぎていった。
そしてそれぞれが自室に戻ろうとしたとき、ヘレンが背後から声をかけてきた。
「ノア様」
「へ、ヘレン、どうかしたか?」
「あの、少しお話したいことが…」
「あ、あぁ…」
ノアは、来てしまったと思った。きっと、結婚まで寝酒に付き合えないと言われてしまうのだ。
「その…できればゆっくりとお話したいのですが…」
「えっあ、ああ…! もちろん! 気が利かなくて悪かった。…昨日と同じ部屋でも構わないか?」
「はい」
まさか、ヘレンのほうからそう言ってくれるとは夢にも思っていなかったノアは、若干挙動不審になりながらも笑みを浮かべた。
「飲み物などは私からイリーヌに頼んでありますので」
「そうか、何から何までありがとう」
「いいえ、準備してくれているのはイリーヌやジュノーですから」
「そ、それもそうか…」
ヘレンは準備ができたら伺うとだけ言い、その場を後にする。ノアはヘレンが避けていない事実に、内心で舞い上がった。そして次の瞬間、何を話されるのだろうと考えた。
食事も終わった時間帯、飲み物とはきっと酒だろう。つまり、ヘレンは自分と二人で酒を飲むことに対して何かを言うつもりはないのだろう。だが、そうすると何を話したいのだろうか。…まさか、結婚を延期したいというわけではあるまい。そこまで考えて、ノアはひやりとした。
忙しくて屋敷を空けてばかりのノアの代わりに、ヘレンが色々なことをしてくれていることは知っている。ターニャやエメリオのことはもちろん、病床にいる母のことも任せきりだ。それに疲れてしまったのではないだろうか。
「……」
ノアは血の気が引いて行くような気がした。以前、自分よりも先に結婚した友人と語った際に、そのような話をしていたことを思い出したのだ。
嫁に来てくれたことに甘えて全てを任せきりにしていたら実家に帰られそうになったことを。
ヘレンがバーゲンムートの実家に戻ることはないと、ノアは思っている。だが、彼女には他にも行ける場所などたくさんあるのだ。それこそ、ミーシャのところなど。
もし、ゆっくりとした時間が欲しいから、少しの間屋敷を離れたいと言われたら…!!
少し考えればあり得なさそうな話だが、この時のノアは本気でそう考えていた。自らの失態による負い目と、ヘレンに頼り切っている事実が、ノアの思考を鈍らせた。
*****
「ノア様、失礼してもよろしいですか?」
「―――ああ」
ヘレンは、どうやってノアに自分のほうがノアのことを好きなのか、示してやろうと画策していた。しかし人に甘えることをあまりしたこともなければ、愛を囁くなんてほとんどしたことがなかったため、イリーヌに相談したのだ。
『いいですか、ヘレン様。殿方というのは、甘えられると嬉しいんですよぉ? でも、ヘレン様は、すこぉし、難しいかもしれないので、ちょーっとだけお酒を飲んで、気を大きくしちゃいましょ?』
にこにこと言っていたが、それが本当なのかヘレンには分からない。だが、それ以上にノアには自分よりも恥ずかしい思いをしてもらいたい。いつもいつも自分だけが恥ずかしがって、しかもそれを面白がっているようにすら見えるときがある。だからこそ、今日、ヘレンはノアを恥ずかしがらせるのだ。
「失礼します」
本当はイリーヌが持ってきてくれる予定だった台車を、ヘレンは自ら押してきた。それに気付いたノアが、慌てて近寄ってくる。
「誰か押してくれる者はいなかったのか?」
「いました、けれど、私が押したいと我が儘を言いました」
「どうしてそんな…」
「…ノア様と、早くお話をしたかったからです」
その瞬間、ノアの顔が強張った。
「失礼しますね」
ヘレンはどうしてノアがそんな表情をするのか分からなかったが、とりあえず用意したものをテーブルの上に置いて、酒を注いだ。
ノアにはいつものように、そして自分にはいつもより少しだけ強めにした。
「ヘレン、大丈夫なのか?」
「はい」
大丈夫かどうかは分からないが、イリーヌ曰く酔って出る本音もあるということだ。それに一度頼ってみようとヘレンは思っていた。
「乾杯」
「…乾杯」
こくり、と飲むと喉が一瞬で熱くなる。しかしまだ大丈夫だとヘレンは思った。
「そ、それで、話っていうのは…」
「あ、そうでした…。あの、侍女を一人、雇って頂きたいんです」
「…じじょ?」
「はい」
ヘレンは自分の婚約が調ったことを、かつての家庭教師であるサブリナに報告していた。そしてそのサブリナから、かつて一番信頼していた侍女、マリのことを聞いたのだ。
一時、ヘレンに依存しきっていたマリは、サブリナの元でたくさんの知見を得て、大分マシになったということが手紙には綴られていた。今であれば、もしヘレンとその婚約者であるノアが許すのであれば、もう一度侍女として雇わないか、とも。もちろん、マリにはマリの人生がある。その為、ヘレンはノアに聞いてからになるが、マリはそれでいいのかと返した。
すると、マリは今でもヘレンのことを大事な主だと思っているようで、もし叶うならば、と返してきたのだ。
「それは構わないが…」
「よかった…! マリというんですけれど、マイヤーの屋敷で一番長く一緒にいたんです」
「そうか」
「本当はその話を昨日しようとしたのですが…」
「すっ、すまなかった…!」
「ノア様もお疲れのご様子でしたしね」
小さくなりながら謝るノアに、ヘレンは苦笑を浮かべる。ノアが疲れていることなど理解している。これからの為に、必要なことをノアは一人で行ってくれているのだ。それを労りこそすれ、非難するつもりなど毛頭なかった。
ただ一つを除いて。
くぴり、とグラスを傾け酒精の強いそれを喉に通す。カッと身体が燃えるように熱くなる。頬は熱を持ち、少しだけふわふわとした。気持ちが大きくなったような、そんな気も。
ノアはそんなヘレンを心配そうに見ている。
「そんなに飲んで大丈夫なのか? あまり飲みなれていないだろう?」
「…だいじょうぶです! でも、ノア様…私、言いたいことが、あるんです」
「! な、なんだろうか…」
くすくすとヘレンは笑いを零した。
そんなヘレンを、ノアが絶望にも似た眼差しで見ていることに気付かずに。




