7
「ヘレン」
「ノア様」
ある日の夜、ヘレンは久しぶりに顔を合わせるノアに笑みを向けた。
「外出してばかりですまない……何か問題はないか?」
「いいえ、ノア様がお忙しいのも仕方のないことですから。問題はありませんよ。ターニャとエメリオも一生懸命ですし、エルサ様は…ここ数日は気分がいいと仰っておられましたから」
「そうか。今少しいいか? よければ、寝酒に付き合ってほしい」
「もちろんです」
現在、ノアとヘレンの婚約は正式に整っていた。バーゲンムートの父ドナルドが頑張ってくれたのだろう。もっと時間を要するかと思われた書類関係が思ったよりも早く済んだおかげだった。
「イクス、悪いんだが厨房に軽いつまみを頼めるか?」
「かしこまりました」
背後に控えていたイクスにノアがそう言うと、イクスは予想していたのか流れるように受け答えをし、その場を後にする。
「私室…ではまだ駄目だな…。私の執務室でもいいか?」
「はい」
ヘレンも丁度ノアに話したいことがあったため、渡りに船だった。廊下に灯された僅かな光源の中、二人は静かに歩く。
多忙にしているノアの背中を見ながら、ヘレンは無理をしていないだろうかと心配になる。ノアが公爵を継ぐと決定してから、ノアの忙しさは目に見えて酷くなった。今までが忙しくなかったというわけではない。だが、世代交代ともなればたくさんの人の元に会いに行ったり、領地視察をしなければならない。近々、たくさん開かれる夜会にて顔を売っておかなければならないだろう。もちろん、ヘレンは正式な婚約者としてそれに同席する予定だ。
「ふぅ……」
執務室につくなり、ノアは軽く息を吐きながら首元のタイを緩めた。顔を見れば、やはり疲労が見える。
「ノア様こそ、無理をされていませんか? 一緒に食事を取っていませんが、ちゃんと取られていますか?」
「あぁ…イクスがしっかりと見張ってくれている」
ヴィノーチェ家では出来る限り食事を共にする決まりがあったが、ノアは最近それに参加できずにいた。そのことをターニャやエメリオは寂しく思っているだろうが、それを口にしない優しい子たちだ。
「ノア様、ヘレン様、失礼してもよろしいでしょうか?」
「入れ」
部屋に来て十分もしないうちにイクスが入室の伺いを立ててくる。ノアが許可すると、イクスと台車を押した侍女のイリーヌが入室してきた。
「夜遅くにすまないな」
「いいえぇ。せっかくの深夜の密会、ですものぉ」
「…イリーヌ、言い方」
「あらぁ、ごめんなさい? でも、ノア様にはヘレン様成分が足りてないのではありませんかぁ?」
イリーヌの歯に衣を着せぬ言い方に、ヘレンは体がかっと熱くなったような気がした。
「そうだな…晴れて婚約者になってもらえたというのに、これでは愛想を尽かされてしまうな」
「うふふっ、そんなノア様の為に、ちゃあんとフォローをしておきましたわよ!」
「フォロー?」
酷く楽しそうに笑みを浮かべるイリーヌに、ノアが怪訝そうな表情を浮かべる。イクスはイリーヌを呆れたように見ているが、害にはならないと判断しているのだろう。何も言わない。
「ヘレン様の、ド・レ・ス」
「!! い、イリーヌ!? ヘレン、何を聞いたんだ!?」
「え? えっと…ノア様が指示を出されていると…」
その瞬間、ノアの顔が真っ赤になった。なかなか見ないその表情に、ヘレンは驚きつつもつい魅入ってしまう。
「い、言うなと言っただろう!?」
「えぇ…ですが、ノア様の独占欲を、ヘレン様も知っておいた方がいいかしらって、侍女の皆で話し合いましたのよぉ?」
「ヴぃ、ヴィヴィアンヌは!?」
「もちろん、ご存知ですわぁ」
イリーヌの言葉に、ノアががっくりと肩を落とした。
「の、ノア様? 私は、とても嬉しく思いましたけれど…」
「だって、恥ずかしいだろう…」
「?」
ノアは手で顔を隠しながらもヘレンをちらりとその指の間から見ていた。その可愛さあふれる仕草に、ヘレンの心臓がぎゅん、となる。
「いい年した大の男が、嫉妬なんて…」
「し、っと、ですか?」
ヘレンにはどうしてノアが嫉妬するのか分からなかったため、つい鸚鵡返しに聞いてしまう。するとノアは自棄になったのか、顔を覆っていた手で髪をぐしゃりと掴むと、真っ赤な顔のまま続けた。
「これから君は私とともに色々な社交の場に出ることになるだろう? 他の男に君の肌を見せたくないんだ!」
「!!」
イリーヌから聞いていたが、本当にそう思っていたとは思わなかったヘレンは、ノアの顔の赤さが移ったかのように真っ赤になる。
そんな二人を、イリーヌはにやにやと見つめ、イクスは遠い目をしながらノアの前に酒を置いていた。阿吽の呼吸なのだろう。ノアはそのグラスを掴むと、勢いのまま飲み干す。酒精の強いものだったと記憶しているが、大丈夫なのだろうか。
「以前にも言ったがな! 君はとても綺麗だ! 艶やかな黒髪は指通りがいいし、青い瞳だって宝石のようだ!」
「え、ノア様!?」
「手のタコだって、今までの君の努力の賜物だとわかれば愛らしいし、肌だって陶磁器のように滑らかだ!」
ノアのいきなりの褒め殺しに、ヘレンは思考が停止する。彼が今までこのようにヘレンの容姿を褒めたことがあっただろうか。
「うふふ、ヘレン様、ノア様は、ヘレン様がどんどんお綺麗になっていくのを嬉しく思いながらもやきもきしていたんですのよ?」
「イリーヌ、お前は口を開くな…」
「だって、ノア様ってばイクスや私には仰られるのに、ヘレン様に直接言わないんですものぉ」
「はぁ…ヘレン様、ノア様は連日の疲れにより少し酔いやすいようです。我々はこれにて失礼いたしますが、何かあればすぐに呼んでください」
「え!? イクス!? イリーヌ!?」
「ではヘレン様、良い夜をぉ」
イクスは少しだけ疲れた表情を見せながら、イリーヌを連れ出す。そのあまりの行動の速さに、ヘレンは茫然と見送るしかなかった。
「ヘレン、聞いているのか?」
「へ!? あ、はい!」
「社交界に出れば、他の男が君を見て惚れるかもしれない…いや、惚れてしまうだろう…。だが、君を閉じ込めるのは本意ではない…」
苦悩しているノアだが、ヘレンからすればどうしてそこまで自分を高く評価してくれているのかわからない。
「見せびらかしたい気持ちもあるが、下心の在る視線に晒したくはない…」
「え、あ、はい…」
「私に出来ることと言えば、ヘレンに出来るだけ露出の控えたドレスを贈ることだが…だが…」
「だが?」
ヘレンは知らないうちに用意されていた自分用のグラスを手に取り、一口口に含む。イリーヌが用意してくれたのだろう、自分用に割ってあるそれは、簡単に喉を滑り落ちた。ドキドキしすぎたせいか、喉が渇いているような気がしてならない。
しかしノアはヘレンが自分以外の何かに気をやるのが気に入らなかったのだろうか、グラスを奪うとそのまま空にする。
「ノア様! それは私のっ…!」
「…弱い…」
一杯しか飲んでいないのに、ノアは既に酔っぱらっているのだろうか、と心配になるヘレンを他所に、ノアはヘレンの隣に座ると距離を詰めてきた。
「ノア様…? あの、少し、近すぎでは…?」
「……」
ヘレンの言葉を聞いていないのか、ノアは降ろされたヘレンの髪を救い取り、口づけを落とした。そしてそのまま首筋に顔を寄せると、くん、と匂いを嗅いできた。
「ひっ」
「―――色っぽいこの首筋を、見たいという気持ちもある」
その瞬間、場違いにもエルサのむっつりか!という叫びがヘレンの脳裏を稲妻のように駆け巡った。
「のの、ノア様っ! せ、折角用意してもらったんですから、少し口にしましょう!?」
「―――」
ヘレンの必死の言葉にも、ノアは反応しないままくんくんとヘレンの首筋に鼻を寄せる。くすぐったいような、その場だけが熱せられたような気がする。
ぐるぐると熱がヘレンの身の内を焦がしていくような気すらした。
「あぁ―――本当に、可愛い…」
「ひゃあっ」
な、舐められ…!?
ヘレンは混乱の極みにいた。自分を舐めてもおいしくなんてない、と叫びそうになる。しかしノアはヘレンの混乱を他所に濡れた唇を押し付け、ヘレンの首筋を美味しいものでも食べるかのように食んだ。
「―――!! こ、これ以上は駄目です!!」
「っ!」
このままじゃいけないと、ヘレンの理性が叫んだ。そしてノアの肩を思いっきり押した。ノアのことは好きだが、流石に駄目だ。自分たちはまだ婚約者であって、夫婦ではない。
「ご、ごめんなさいノア様! で、でも…!」
「……」
嫌いで拒否したわけではない。だが、このまま酒の勢いでなし崩しというのは…とヘレンが必死に言い訳を考えたが、ノアの反応がないことに気づく。
「ノア様…?」
「すぅ……」
「え? 寝ている? ……この状況で?」
さっきまでガンガン押してきたはずのノアは、すやすやと寝息を立てている。少しだけ幼く見えるその顔に、ヘレンはちょっとだけ怒りを覚えた。
いくら疲れているとはいえ、あまりにも酷いと思ってしまうのはヘレンだけだろうか。
「―――もう、仕方のない人!」
だが、ノアが連日疲れていることを理解しているヘレンは、何も言えなかった。ちょっとだけ色々言ってやりたい気持ちはある。だが、それ以上に頑張っているノアを責める気にもなれなった。
「ばか」
ヘレンは安らかな寝顔を見せるノアにそれだけ零すと、イクスを呼びに立ち上がる。このままでは風邪をひいてしまうだろう。だが、成人した男性を寝室に連れていけるほどの力などヘレンにはないし、それ以前に異性の寝室に入るなんてはしたない真似ができなかった。
「え? 寝ちゃったんですか?」
「はい」
「うわぁ……まだそんなに経っていないですよね?」
「お疲れだったんでしょう…。イクス、申し訳ないけれどお願いできますか?」
「あ、はい、もちろん……うわぁ…ノア様、明日荒れそうだな……」
「何か言った?」
「いいえ」
ヘレンはイクスがノアを運ぶのを見届けると、用意された酒とおつまみを自室に届けてほしいとイリーヌに伝える。
「あらあらあら、ノア様、残念過ぎますわぁ…」
流石にイリーヌも笑う気にはならなかったようで、痛ましい表情をしている。
「色々とお話をしたかったんだけれど…」
「明日になればお話しできると思いますわぁ。その前に謝られそうですけれど」
「でも…ちょっとだけ怒っているの」
「あらヘレン様が?」
「今度、時間ができたら手伝ってほしいことがあるの、お願いできる? イリーヌ」
内容は言っていないが、酷いことをするはずがないことを知っているイリーヌは、すぐさま笑みを浮かべて頷いた。
「ノア様だけじゃないってことを、知らしめるわ…!」




