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コンコン、とトンクスが扉を叩く。
それをヘレンとノアはトンクスの後ろで聞いていた。
「エルサ様、ノア様とヘレン様をお連れしました」
「―――入りなさい」
あの後、二人はそれぞれの部屋で夕食の時間まで休息をとった。そして久しぶりに家族で夕食をとった後、トンクスから呼ばれたのだ。
ノアは緊張からか少し顔が強張っており、それはヘレンにも伝染した。
「疲れているところにすまないね。かけなさい」
「はい」
入室すると、エルサの部屋は燭台の優しい光だけが満たしていた。もう休むつもりだったのだろうか。
「とりあえず、ヘレンの無事を祝おう。トンクス」
「はい」
エルサがトンクスに声をかけると、あらかじめ用意されていたらしい葡萄酒がグラスに注がれる。深い色をしたそれに、エルサは笑みを深めていた。
「これね、とてもいいものなんだ。せっかくだし、今日開けよう」
「いいのですか?」
ノアにはその価値がわかるのか、少しだけ驚いた様子で聞いている。しかしエルサはもちろん、としか返さなかった。
「―――ヘレンの無事と、二人の婚約を祝して」
エルサの言葉に、ヘレンは驚きつつもグラスを少しだけ上げた。ノアはエルサが知っていることに何にも驚きを見せず、ヘレンと同じようにグラスを持ち上げる。
そして三人は葡萄酒を口に含んだ。
「んーーー、美味しいね」
「えぇ…これは、てっきりもっと大切な日に飲むものだと思っていましたよ、母上」
「今日だって大切な日だろう? ノアに好きな人が出来て、婚約できたんだから」
くすくすと笑うエルサに、ヘレンはノアがこれから話すことをこのまま進めていいのかと迷いすら生まれた。だって、せっかく戻ってきて、親子の時間を取っているというのに、本当に、いいのだろうか。
ノアは、そんなヘレンの戸惑いには気づくことなく、葡萄酒に舌鼓を打つ。
「それで、母上…いえ、公爵。今回の件について説明はいただけますか?」
「!」
いきなりの言葉に、ヘレンは葡萄酒を吹きそうになった。死に物狂いで止めたが。
「いきなり、どうしたんだい、ノア」
「お分かりでしょう? 今回の一件、公爵にしてはあまりにも手ぬるすぎる。私の知る公爵であれば、クリストファーの存在を知った時点で手を打っていたはずです」
「買いかぶってくれるね?」
「本当のことですから」
ヘレンはハラハラしながら二人の会話を聞いていた。それしかできなかった。そして、自分がこの場にいるのが場違いのようにすら感じていると、ノアがテーブルの下でヘレンの手を握った。
その手はとても熱く、そして少しだけ震えているように感じた。
「それで、ノアは今回のことをどう思ったんだい?」
「……まるで、私たちを試しているように感じられました」
「試す、ねぇ?」
「はい。クリストファーの存在を放置し、それに対して私やヘレンがどのような対応をとるのか。そして、その存在を放置した公爵に対して、何をするのか…。公爵がわざと見逃したクリストファーは、この国でアマリーを人身売買に渡していました。そのおかげで、自警団も奴らの尻尾を掴めた。ヘレンに関しても、彼女を妻にするためには一度彼女にはバーゲンムートに戻ってもらわなければならなかった。今回運よく、彼女は過去の清算に成功しましたが…一歩間違えれば取り返しのつかないことになっていたかもしれません」
「そうだね」
「一つ、疑問なのが…どうして急いだんですか」
「急ぐ?」
ヘレンには、ノアの言っていることの半分ほどしか理解できなかった。どうして、エルサが急ぐ必要があるのだろうか。
そこでヘレンは自分なりに今回のことを改めて思い返してみた。
クリストファーという存在の放置により、人身売買の件が公になる。そして自警団が大々的に確保することができた。ノアの妻になるのであれば、ヘレンは必ず一度は家に戻らなければならない。マイヤー姓を名乗っている以上、必ず。
だが、いつ戻るかなどの話どころか、あの時はノアの求婚に対しても明確に答えてはいなかった。今回の件があって、ノアの妻になる決意をしたと言っても間違いではない。そういったことを考えれば、クリストファーが無理やりヘレンをバーゲンムートに攫ったことで、婚姻の件なども一緒に話すことができた。
だが、ノアの言う通り、いつかはしなければならないものだ。今回の一件ですべてを行うというのはかなり急いでいる感がある。
「公爵…。貴女は、危険人物を見逃したという罪があります」
「かもしれないね」
「貴女が手を打っていれば、アマリーやシエルはまだこの屋敷にいたかもしれない。ヘレンも、心に傷を負う必要もなかったかもしれない」
「だが、結果としては無事だっただろう?」
「それは結果論だ……母上、そんな貴女に、公爵家をお任せすることは、できない」
「ノア様!?」
ノアのいきなりの言葉に、ヘレンはつい声を上げてしまった。確かに、何かしら苦言を申すのだろうとは思っていたが、そのようなことを口にするとは想像もしていなかったのだ。
しかしエルサは、そんなノアを楽し気に見つめている。まるで、言われることを予想していたようだ。
「ふぅん? なら、ノア。お前が当主になるというのかい? その覚悟を、持っていると?」
「…正直このような形で継ぐ気はありませんでした。ですが、私は貴女に教えられた通り、民を守る責務があります」
「それで?」
「エルサ・ヴィノーチェ公爵。私に、爵位を」
「お前ならば、私以上に守れるというの? 私の名前のお陰もあって、守れているものがあるかもしれないのに? 多少仕事を手伝わせていることが、お前を傲慢にさせたかな?」
ヘレンがエルサを見れば、そこには当主としての覇気を纏ったエルサが悠然と構えていた。そして改めて気づかされる。いつも優しく親しみを持って接してくれるその人が、カロリアンでも女傑と謳われる人なのだということを。
「……傲慢かどうかは分かりませんが。ですが、母上…貴女がそれを望まれているのでは?」
「―――どういうこと?」
ノアの言っていることを、ヘレンは理解できなかった。エルサが、現状を望んでいる? ノアが彼女を当主から引きずり降ろそうとしている今を?
「理由は分かりませんが…母上が当主から降りたいからそのような行動を取っているようにしか見えないんです」
「それは…私が貴族としての職務を放棄したいと言っていると?」
「いえ…母上が、そのような人ではないことくらい、知っています。…母上、お話しくださいませんか」
ノアの真摯な言葉に、エルサはため息をついた。
「…エルサ様。お話しください」
「トンクス」
沈黙するエルサに、空気に徹していたトンクスが言葉を発した。その表情は固く、一種の悲壮さすら浮かんでいるように見えるのは、ヘレンの気のせいだろうか。
「ノア様は、貴女様が思われる以上にしっかりと育たれました。ノア様であれば、ヴィノーチェ公爵をお任せしても問題ないとこのトンクス、具申いたします。ですから、このような幕引きはお止しください」
「トンクス?」
トンクスの言葉は、なにかおかしいとヘレンは思った。まるで、一連の出来事はエルサがこの時の為に仕組んだもののようだ。
「あーあ。トンクス、お前が言ってしまったら全てバレちゃうじゃないか」
「母上」
エルサは、諦めたように天井を仰ぐと、葡萄酒を口にした。まるで、自分を落ち着かせるように。
「……ノア、ヘレン。単刀直入に言おう。私に病が見つかった」
「!!」
「なっ……い、医師を…!!」
「いいんだよ、ヘレン。もう何度も診てもらっている」
その衝撃的なエルサの一言に、ノアとヘレンは固まった。ノアのヘレンを握る手に力が籠められる。
「どこ、が…」
「肺がね。結構進行している」
「そ、そんな…」
ヘレンがエルサを見ても、その顔色に変化はない。反対に、ノアと自分の顔色が悪くなっているのがわかる。どうして、そんなに平然としているのだろうか。
「ノアの言う通りだ。病が見つかってから、私はノアに当主の座を渡すことと、お前の婚姻相手を見つけることを早急にしなければならなくなった。さらに言うのであれば、ノアを成長させることもしたかった」
エルサは懺悔するかのように話し始める。
「ノア、お前は優しすぎる。ジェシカの時もそうだが、お前は身内に入れた人間に対して酷薄になれない。当主ともなれば、時に身内だろうが非情にならないければならない時がある。それが、お前にあるとは、私には思えなかった」
厳しいような言葉だが、それがエルサの下したノアへの判断だった。可愛い息子だ。とても。自分の命を懸けてもいいくらいに。ターニャもエメリオもそうだ。
だが、貴族の当主ともなれば、優しさだけではやっていけない。
しかし時間をかけて教えていけばいいかと思った矢先、自身に病が発覚した。今のカロリアンの医学では完治させることは出来ず、エルサは残された時間というものを知った。
涙が止まらなかった。
愛する子供たちを置いて逝く。愛した夫、ザクセンのように。
だから、エルサは決めなくてはならなかった。当主としての自分を取るか、母親としての自分を取るか。それは、酷く辛い決断だ。
しかしエルサは決めた。この先も、子供たちがしっかりとその足で立って歩けるように。自分の決断を後悔しない日などない。叶うなら、子供たちの母親として、もっと甘やかして、愛したい。だが、自分の立場はそれを許してはくれないだろう。
ヘレンと出会った当初、まだ病は発覚していなかった。しかし、発覚して、ヘレンとは出会うべくして出会ったのだと思った。
ジェシカの二の舞にならないよう、ヘレンのことは隅々まで調べた。そしてノアもヘレンに対して想いを持ったと知り、そしてヘレンを妻にしたいと言った時、今しかないと思った。
ノアとヘレンを傷つけるだろうことは分かっていた。それでも、エルサには止められなかった。自分の残り少ない命を、すべて使ってでも。ノアをヴィノーチェ公爵当主に相応しい人間に。そしてそんなノアを心身ともに支えてくれるヘレンを妻に。
身勝手な母親だろう。最低な母親だろう。
それでも、エルサにはそうすることしかできなかった。




