41
あぁ、この人は、とても悲しくて、寂しい人なのだとカレンは思った。
社交的で、精悍で。
誰からも愛されてるだろうはずの彼は、きっと悲しい人なのだと。
「本当にそれでいいのかい、カレン」
「えぇ…彼がお姉さまにしたことは許せないけれど…でも、生まれてくるこの子に父がいないというのは…」
父が心配そうに自分を見てくる。その横では、母も似たような表情だ。しかし、カレンは自分の意見を変えるつもりはなかった。
「カレン、後悔しないのね?」
「はい、お婆さま」
祖母と姉から、今までのことを聞いた。どうして姉がアレックスと自分の結婚を取りやめるように言い出したのかの切っ掛けや、カロリアンからここに連れてこられたことなど。
前までの自分であれば、到底耐えられなかっただろうそれを、カレンはしっかりと聞いた。
アレックスと結婚して、後悔していないとは言えない。婦人たちのお茶会での話、そしてアレックス本人からの話を聞いて、何度後悔し、涙したことだろう。あの時ほど、姉の言うことを聞いていた方が良かったのかもしれないと思わない日はなかった。
だが、それはある日を境に変化した。
「正直、怖いことばかりです…。私にこの子がちゃんと産めるのか…育ててあげられるのか…。でも、この子には私しかいないって思ったとき、もっと強くならないとって思ったんです」
「カレン」
そう、今までのように流されてばかりではいけない。まだ母親としての自覚は薄いが、それでも、この子に胸の張れる親でありたいとカレンは思った。
カレンがそのようなことを口にすると、母が感極まったのか涙を零した。
「本当は、お父様やお母様のように夫婦でと思っていました…でも、アレックス様にとって、それが幸せではないみたいだから」
「カレン、本当に、本当にいいのかい…? 母上の言う通り、確かに社交界では敬遠されるだろう…だったら、マイヤーからで出なければいい。お父様やお母様が守るよ?」
「ドナルド」
父は心底心配そうにカレンを見ながらそう提案する。それがどれだけ甘く聞こえることか。
だが、それでもカレンは頭を横に振った。
「いいえ、お父様。私が、アレックス様と結婚したいと言ったの。お姉さまが止めても、したいって。確かに私はお姉さまのように頭は良くはないわ…でも、それでも、生まれてくる子の為に、出来る限り強くなって、私がこの子を守ってあげたいの」
姉を傷つけてまでした結婚。離婚したとしても、今度は両親に負担をかけると分かっていて離婚するわけにはいかなかった。
それにここで逃げれば、確かにカレンは平穏な日々を手に入れられるのかもしれない。だが、生まれてくるこの子に、父がいない寂しさを味合わせることになるのかもしれないのだ。例え、アレックスがどんなに酷い人だとしても、自分にとっては愛した人であり、この子の父親なのだから。
きっと、自分は馬鹿なのだとカレンは思う。大切な家族を傷つけた人と、それでも一緒にいると決めたのだから。
泣いているその人を見て、カレンの胸は締め付けられるように痛んだ。そして彼が、自分が泣いていることにも気づいていないことに気づいて、更にそれは酷くなった。
「アレックス様」
「なん、だ、これは、どうして……」
止まることのない涙に困惑するその姿に、カレンはどうしようもなく寂しい人なのだと理解してしまった
そしてそれを本人が気付いていないことにも。
「わ、私が寂しい、だと…? そんなはずあるわけが…」
「本当、ですか?」
「当たり前だっ…!」
語気荒くそう言っているが、酷く頼りなく聞こえる。
カレンは混乱しているアレックスの手を取り、そっと握った。
「カレン?」
「……」
カレンは何も言わずに、その手を確かめるように握った。姉のように剣ダコがあるわけでもなく、だからと言って女性の手である自分のものより少し硬い手。
カレンには分からない。アレックスが何を抱えているのか、どうして寂しがっているのかも。
「アレックス様…私は、貴方を許せるかと問われれば、今は許せそうにありません」
「―――何が言いたい?」
「私は貴方の全てを知っているわけでありません。でも、お姉さまにしたこと、そして私に強要したこと…。言葉にしたことはありませんでしたが、私、とても傷ついたんです」
「…他の婦人方だって、そうしていただろう?」
「それでも。私の家はそうではありませんでしたので」
子が出来てから、カレンはようやく今までに言われたことを振り返り、考えるようになった。あの時は、自分の境遇に憂いてばかりで泣き臥していたから。
だが、よくよく考えればおかしな話だ。貴族の妻として正しい在り方だとお茶会でも当然のように誰もが言っていたが、そのような話は自分の母からも祖母からも聞いたことがない。もしそれが本当だとすれば、二人は前もって教えてくれるはずなのだから。
本当のことは分からないが、カレンはこう考えた。
夫人たちは、自分たちがそう在らねばやっていけなかったのではないのだろうか、と。つまり、自分たちの両親のように仲睦まじくすることが出来ずに、敢えてそうすることで矜持を守っているのではないかと。
夫に愛されている、だが、遊んでいる。きっとそれらは、婦人方の心を酷く傷つけたのだろう。だから、そうすることで、余裕を作らなければやっていけなかったのではないのだろうか。
「…アレックス様、私は、貴方のご婦人方を慰める行為に関して、一生理解することは出来ません」
カレンはそれをはっきりと口にした。
「貴方がそれに対して矜持を持っていようが、私には関係ありません。正直に言って、他の女性を抱いた手で、私に触れないでほしいほどです」
「カレン! 私を、愛していると言ったじゃないか…!」
「愛しているからこそ、です」
「愛しているから…?」
「私だけを、愛してほしかった。他の女性に触れないでほしかった。でも、貴方がこれからも触れるというのであれば、二度と私に触れないでください」
「君は妻だろう!?」
どうしてアレックスが驚いているのか、カレンには理解できなかった。だって、自分以外の人を抱くのに。
「この子は正式なファフニールの跡取りです。男の子でも、女の子でも…私は全てを使ってでも、この子を育て上げます」
「その子に何かあったら、どうするんだ!?」
「その時になったら、考えるかもしれません。ですがその時は、離縁も視野に入れていただきたいと思います」
「カレン!!」
カレンは怒るアレックスに対して、初めて怒りを露わにした。
「貴方のせいよ!! 貴方が、私だけを見てくれないから!! 私は、貴方の…アレックス・ファフニールの妻になりたくてなったのに!! 貴族としての貴方でなく、優しい貴方を好きだから、結婚したいと思ったのに!!」
言葉を失うアレックスに、カレンは更に言い募った。
「貴方と一緒に、これからの人生を共に歩みたいと思ったのに!! 両親のようでなくてもいい…! 私たちらしく幸せを築ければいいと思ったのに! それを壊したのは貴方よ!!」
「―――」
アレックスはカレンの言葉を聞くと、酷く戸惑ったような表情をした。それは、まるで迷子の子供のようにすら見えたが、カレンの心は動かされなかった。
今更そんな表情を見せて、自分が絆されるとでも思っているのだろうか。だとすれば、どれだけ自分は扱いやすいと思われているのか。カレンの心は、今までの燻っていた怒りに燃えていた。
「―――わたし、を、好き、だと…?」
「は?」
「伯爵の、私でなく、私、を…?」
酷く拙く言うアレックスに、何を今更そんな馬鹿なことをと思った。彼が優しくて、見た目も好みで、だから彼と結婚したいと言ったのに、気づいていなかったのか。
「馬鹿なのっ!?」
カレンの口はこの数十分の間にどんどん悪くなっていっている。子が産まれたら気を付けなければと頭のどこかで思った。
しかしアレックスは何故か、どこか嬉しそうに微笑みを浮かべた。
それがあまりにも無垢な子供のようで、カレンは一瞬それに見惚れてしまう。
「そうか…」
「な、なに笑っているの!? 私は怒っているのよ!!」
「うん―――うん」
カレンがどれだけ怒っても、アレックスはただただ嬉しそうに笑うだけだ。その眦にきらりと何かが光ったような気がしたが、カレンの気のせいだろう。
その後、アレックス・ファフニールは社交界から姿を消した。社交界での彼の噂は良くないものばかりで、その所為だろうと誰もが口にする。
しかし何故か、代わりに妻のカレン・ファフニールが表立って動くようになった。
彼女曰く、夫は駄目な人間ですので家で管理しています、とのこと。その言葉により、カレン・ファフニールの存在は女性たちに一目置かれるようになる。
「カレン、今日は何をすればいい?」
「貴方は書類を確認してください。終わったら領地でも見回ってきたら如何です?」
「どうしてそんなに家から出そうとするんだい…」
「あら、ご自分の胸に聞いてみたらどうですか?」
「……」
アレックスは自分の妻のすげない言葉に肩を落とした。カレンに怒られてから既に数年。しかし彼女の怒りは未だに収まらないらしい。
「お母様! お父様!」
「リアン」
すると廊下の向こうから六歳になる息子が駆け寄ってきた。
「リアン、廊下は走ってはならないと言ったでしょう!」
「うっ…ごめんなさい…」
「カレン、そんなに厳しくしては…」
「貴方は黙っていてください」
「はい…」
今はファフニール家はカレンなしでは成り立たなくなっている。出会った当初、彼女がこんなにも強い女性だとは気づかなかった。…強くならざるを得なくしたのは、自分かもしれないが。
社交界の噂は、今も消えていない。この先アレックスが社交界に顔を出すことはないのだろう。だが、それでもいいとアレックスは思い始めていた。
「リアン、お勉強はどうしたの」
「もう終わったよ!」
「あら、偉いわね。なら今日はもう遊んでいいわよ」
「ほんと!? やった! お父様、一緒に遊ぼうよ!」
「もちろん!」
「駄目です。貴方は仕事があるでしょう」
「はい…」
今更になってだが、アレックスは自分がしたことの罪深さをようやく知った。そして如何に自分が自分本位で我儘だったのかも。だが、いくら更生したとしても人の噂は消えないし、カレンからの信頼も未だに底辺だ。正直、この屋敷で一番低い自信はある。…あって欲しくなかったが。
だが、それだけのことをしたのだと、この年になって理解した。遅すぎるとカレンには詰られそうだが。
きっと、自分は良い死に方を出来ないだろう。それだけのことをしてきた。それでも、今一時の幸せだけは手放したくないと、アレックスは願う他なかった。
数年後、アレックスは急逝する。
理由は、かつての知り合いに刺されたためだった。男は、かつてアレックスに人に言えないような汚い仕事を任されていた。しかしそれがなくなり、金銭的余裕がなくなったゆえの凶行とされる。
夫を亡くしたカレンは、その後も息子の後見として精力的に頑張った。ある意味姉が欲していた地位に就いたともいえよう。
カレン・ファフニール伯爵夫人は、自身の夫の訃報を聞いたとき、ただ一言、そうとしか言わなかった。
そして誰もいなくなった部屋で、一人涙を流した。
アレックスの死は、ある意味自業自得ともいえる。だが、幼い息子を残して死んでいった彼の胸中は如何程のものだっただろうか。
―――その答えを知るものは誰もいない。




