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あのように、自分も愛されて、いたのだろうか。
生まれてくるのが待ち遠しいと言わんばかりの瞳で、見られていたのだろうか。
酷くそれが、苦しくて、悲しくて、寂しくて、嬉しくて。
何と言っていいのか、分からない感情がアレックスの胸中を襲った。カレンは、あのように微笑む娘だっただろうか。まるで、知らない女性のようにすら見える。それが酷く遠く感じられた。
自分だけが、何も変わっていない。何も、変われていない。自分だけが、置いていかれる。
両親は、自分に全てを任せて、逃げるように田舎に引っ込んだ。貧乏な家だけを残して。愛はあった。だが、それだけだった。周りの友人と思った人たちは、自分が貧乏であることを裏で笑っていた。それが、自分の心の軋轢を生んだことを、アレックスは無意識のうちに理解していた。
そして徐々に、自分のことを知り、容姿が悪くないことを知った。そしてそれを利用して何が悪いとも思った。貧乏だった幼少期は心的外傷となり、金さえあれば幸せになれると思った。
カレンとの結婚も、別にどうでもよかったというのが本音だった。カレンが自分を好いている、だから自分も好く。それだけでいいじゃないか。だが、カレンは自分に愛を求め、誠実さを求めた。
子供だと、思った。
しかし、目の前にいる女性など知らない、とアレックスは思った。
「―――アレックス、様…?」
「…カレン、なのか」
声を聞いて、そして目の前の女性が本当にカレンなのだと理解できる。だが、その青い瞳が自分に向けられていると気づいたとき、アレックスはわけもなく居心地が悪くなった。
かつて、彼女の瞳には自分に対する好意があった。そしてそれは非難するようなものへと変化していったことは覚えている。しかし、今のカレンの瞳からは何の感情も読み取れず、それがさらにアレックスを戸惑わせた。
「…どうして、ここに?」
「ひ、どいことを言うね。カレン。自分の妻を心配するのは当然だろう?」
「妻…そう、でしたわね」
以前のカレンであれば、喜んだはずの一言だというのに、カレンの表情に喜びが一切浮かばない。どうしてだ。
「お腹の子は、元気にしているかい?」
「え、えぇ…。まだ、動いたりはしないのですが、経過は良好だと医師に仰っていただきました」
「そう、良かった」
会話が、どこか空々しく聞こえる。
前までのカレンは、アレックスを見れば辛そうな表情をすることが多かった。しかし今の彼女からはそれを感じられない。
―――まるで、アレックスのことなどどうでもいいようにすら、見える。
「…カレン、何か困ったことは、ないかい」
「困ったこと、ですか?」
アレックスは何を言っていいのか分からずに、ようやくそれだけを口にする。
「何も、ありません…。この子が、元気に育ってくれれば、それだけで」
「―――」
カレンはそう言いながら、自分の腹を撫でた。少し膨らんだそれを見る目には、アレックスの知らない感情が浮かんでいた。
そして何故か、置いて行かれた、と思った。
「アレックス様…アレックス様は、私に何をお望みでしょうか?」
「の、ぞみ…?」
最初、カレンが自分に対して何を言っているのか理解できなかった。アレックスが、カレンに望んでいること?
そして一番初めの時のように言おうとした。貴族の妻として、夫のすることに理解のある女性になること。自分のやることなすことに一々口を出さないこと。アレックスの生活に苦言を言わないこと。
だが、何一つとして口から出ることはなかった。
「私には、他のご婦人方が言うような妻になれそうにはありません。だって、私は夫とは愛し愛される関係でいたいですから。それは生まれてくる子に対してもそうです」
「…」
「前までの私は、そう思っていました。でも、今は少しだけ違います」
「違う…?」
カレンが花のように微笑みを浮かべた。幾度となく見たことのあるはずのそれが、なぜか全く知らない人のように見えた。
「この子がいれば、私はアレックス様だけを気にすることはないのかも、と思い始めていたんです」
「か、れん…?」
「私だけを見てくれないのであれば、もう期待はしません。ですが、この子の教育などに関しては、私が責任をもって行います。アレックス様は父という名だけの存在になってしまうのが、この子には申し訳ないのですが…でも、両親が冷えた関係であることを見せつける必要もないでしょう? 大丈夫です、アレックス様の分まで、私が愛情を注ぎます」
カレンは、このようなことを言う女性だっただろうか。彼女は、自分のことが大好きなのではなかったのか。どうして、自分を見捨てるような口ぶりなのだろうか。
「カレン、それは」
「アレックス様への愛は、あります。ですが、もう期待するのは疲れました。…あなたの、姉にしたこと、そしてその他のことも聞きました」
「それはっ」
「この子に、父がそのようなことを平気でする人間だというのだけは、ばれないようにしていただければいいかなと今は思っています」
カレンは自分を遠ざけるような言葉だけを発する。まるで、生まれてくる子に父は必要ないと言わんばかりに。
「両親やお婆さまともたくさん話をしました。……離縁は、しません。この子を父なき子にしたくありませんから」
彼女は、このような強気な発言をする女性だったか? アレックスの頭の中は混乱に満ちていた。
「アレックス様は、どうぞ、お好きなようになさってください」
ほろりと、カレンの瞳から涙がこぼれた。
そして何故か、それを酷く美しくて、悲しいものにアレックスは感じた。
「―――好きです。貴方がどれほど酷いことをしたと知り、理解しても、それでも、好きです。ですが、私はこの子を守らなければいけません。この子には、親である私しかいないのですから」
そこに、自分はいないのだと、言外に言われる。アレックスは、わけもなく泣きわめきたくなった。どうしてこうなるのだ。
カレンは自分のことが大好きで、自分のことを一番に考えてくれるはずの存在で。それなのに、どうして。
「か、カレン…私を、愛しているのだろう? 見捨てたり、しないだろう? 私が、君にとっての一番だろう…!?」
アレックスは何も考えずに思ったことを口にした。酷く情けないことを言っている自覚は、なかった。
「? アレックス様の一番は、私ではないのでしょう?」
「―――」
それは、酷くアレックスの胸を痛めつけた。そして、何も返せなかった。カレンは涙を零し続けたまま続ける。
「私は、アレックス様が一番でした。そして、一緒に幸せな家庭を築きたいと思っておりました。でも、アレックス様は違うのでしょう? …本音を言えば、同じように愛してほしかった。一緒に、この子の成長を見守ってほしかった。でも、アレックス様にとって、それは幸せではないのでしょう?」
ほろほろと頬を伝う雫に、光が反射して光っている。それを拭わなくてはならないのに、アレックスの体は石のように固まり、動けなかった。
「せめて、私が愛した人を苦しめたいとは思いません…。なので、どうぞ、お好きに生きてください」
「―――だ」
「え?」
アレックスは、自分でも無意識のうちに言葉を漏らしていた。
「そんなの、許さない、カレン、君は、私を一番にしなければならないんだっ!」
「あ、アレックス様…?」
カレンの戸惑う声を、耳が拾う。しかし、アレックスにはそれに構っている余裕などなかった。
「カレン、カレン、君は、私を愛していたはずだ…! きみ、きみまで……!」
―――両親は、自分が成人すると自分たちの仕事は終わったと言わんばかりに田舎に引っ込んだ。
親しいと思っていた友人たちは、裏で自分を嘲笑っていた。
慰めていたと思っていた婦人たちからは、男としての矜持を裏で傷つけられていた。
……ただ、ほしかっただけなのに。
「きみまで、わたしを、みすてるのか…!」
愛していると言ったはずの両親は、自分を置いて行った。
生涯の友だろうと言った友人たちは、本当はそんなことを思っていなかった。
必要としてくれるだろうと思っていた婦人たちは、本当は自分を必要とはしていなかった。
アレックスには、どこにも居場所がない。夜会にも、社交界にも、家にも。だって、誰もアレックスという個人を好いてくれていないから。大切にしてくれないから。
他人からすれば、自らが大切にしないで大切にしてもらおうなど虫が良すぎるという人もいるのだろう。だが、アレックスにはどうやって他人を大切にしたらよいのか分からなかった。
「アレックス様?」
「そうやって、私のことを見捨てるのか…! 両親のように…! かつての友たちのように…!」
自分を好きだと言ったその唇で、自分を必要ないと言う。そんなカレンが、酷く憎たらしくも思った。今まで自分がしたこと全てを棚に上げて。
「―――もし、かして…」
「?」
「アレックス様は、お寂しいの…?」
「―――さ、び…しい…?」
まるで初めて聞くかのようにオウム返しに問い、そしてその言葉の意味を理解するとそんなはずあるわけないと言おうとして、言葉に詰まった。
寂しい、など。そんなはずない。自分は利口に生きていて、一部の人から必要とされていて。あぁ、でも、そうでもなかったのだ。
ぐるぐると頭の中でその言葉が回り、気持ちが悪くすらなりそうだった。頭を押さえ、眩暈すらしそうだ。すると、背に暖かさを感じた。
「…か、レン…?」
「大丈夫ですか? 顔色がとても悪くなっていますわ…」
自分を心配そうに見ているカレンの顔をまじまじと見る。その表情には、純粋に心配しているのだと、そう書いてあるようだった。
最後にそのような表情を見たのは、いつだっただろうか。
「アレックス様!?」
カレンが驚嘆の声を上げている。なぜだろうか。アレックスの様子を見ていたカレンは、少し逡巡すると、ポケットから手巾を出して、アレックスの目元にあてた。
「……カレン?」
「気づいて、いらっしゃらないの?」
アレックスは、自覚のないままに涙を零していた。泣いていることに気づいて、アレックスはどうして、と茫然とした。どうして、自分は泣いているのだろうか。どうして、カレンは自分を痛ましげに見ているのだろうか。
アレックスには、何一つ分からなかった。




