⑪ナナミのユメ
年が明ける。新年を祝う祭が国中で行われたその夜、わたしは城の庭でひたすら剣を振っていた。
『月の国』の脅威をサティ王子に告げたその日。わたしはサティ王子に剣を教えてもらえるようお願いした。数日の稽古を経て基礎を教わり、それからお父さんから教わった剣が規格外に効率のいいことを初めて知らされた。攻め手に欠き、しかし圧倒的な守りに特化したそれを、サティ王子は絶賛した。
その日以降、仕事を終えたあとの時間を、能力の練習と剣の鍛錬に費やす日々が続く。
ミリアは地下牢から脱走した。わたしが『呪の自治区』へと出発した日の夜には、もういなかったらしい。それでも今日まで動きが無いところをみると、向こうから『光の帝国』へと攻め込むつもりは無いのだろう。
ときにはイリスやサティ王子にも心配され、けれどわたしは鍛錬をやめなかった。
剣を振る度に怒りが湧き上がる。わたしの剣にそれは天敵だ。心を鎮め、そしてまた虚空に剣を走らせる。一瞬の隙を作ったところに突き出す刃。そこまで持ち込む型を何度も何度も繰り返した。
そうして過ごすうちに二月になった。寝覚めがいい日はほとんど無かった。気がつけば朝早く魘されて目を覚ます日は増え、日の出前に剣を振る朝も次第に増えていった。
三月のある日、イリスがわたしに訊く。
「ナナミ。殺すなんて言うけど、相手も無防備じゃないんでしょ? あんたもしかして、ランス王子と刺し違えるつもりじゃないでしょうね?」
イリスには、サティ王子と話した『月の国』への侵攻について概ねの内容は伝えた。サティ王子は現在、『月の国』とその周辺国について綿密に下調べをしていて、侵攻計画が実行に移せるかどうかを確かめている最中だ。
「それこそ冗談じゃないわよ」わたしはイリスに答える。「ランスと心中するなんて、それこそ何のためにやるか分からないじゃない。あのバケモノは何が何でも殺す。だけどランスとわたしが同じ場所に堕ちるなんてお断りよ」
それから二日後。サティ王子が『月の国』への侵攻を決めた。
期日は四月一日の夜明け。
奇しくも、わたしがあのバケモノに拾われた日だった。
宣戦を布告する書状は、わたしが書いた。事務的なものが一通。個人的にグレン様に宛てたものが一通。そして今わたしは机に向かい、ランス王子宛のそれを書いている。
手が震えて上手く書けない。一文字分のインクを乗せるたびに荒くなった息を整え、それでも気持ちが治まらなくてこれ以上潰れるはずの無い奥歯を噛み締めた。三月の二十七日。戦争の四日前の午後。三十一日の正午に届けられる予定のそれに、刻むようにひとつひとつ文字を書いていく。気が狂いそうになっては頭を掻き、言葉では十全に込められない気持ちを机にぶつけた。痛む拳をさすりながら次の文字に取り掛かかり、それでも代筆しようかというイリスの申し出は断った。
これはわたしが始めた戦争だ。
平和なんてどうでもいい。ただわたし個人が許せないのだ。ミリア、エミリアさん、リアちゃんの在り方も。人の皮を被ったバケモノも。そのバケモノを生み出した国も。もうこの世界のどこにもいないわたしの大切な人のために、納得の出来ないひとつの正義を殺すんだ。
「……返してよ」
言葉に出すつもりは無かった。目の奥なら何かが溢れ出る。自分でもどうしようもないぐらいに止まらなくなって、書きかけの羊皮紙を払い除けて机に伏せて泣いた。
「返して……返してよ。あんたが蔑ろにした人は、わたしにとっては大切な人だった。何よりも愛おしい存在なんだよ。だから、一言でいいから声を聞かせてよ!」
「ナナミ」イリスがハンカチを差し出してくれる。「負けないで。あと少しなんでしょ」
「正直に言って、わたしがやろうとしてることが本当に正しいって聞かれたら自信は無い。だけど、あのバケモノがこの世界にいるのだけは間違っているって、それだけは確かだから。だから殺すの。あのバケモノが止まるのに死しか方法がないんだったら……わたしは躊躇わないわ」
イリスにハンカチを返すと、わたしは床に落ちた便箋を拾ってまたペンを走らせる。締めに『さようなら ランス』と書くと、わたしはそれを封筒に入れた。
四日後深夜。進軍二日目。
時刻はもうすぐ二十四時を回り、日付は四月に変わろうとしている。
進軍の先頭はわたしだ。その後方には百メートルほど離れて五万の兵士が控えている。
わたしが書状に書いた時刻は『四月一日の夜明け』。三月三十一日の正午に届いたそれを見て、ランス王子は夜のうちに進路に魔法式を書いて迎撃しようとする――せざるをえないはずだ。一人ひとりは強固でも、『月の国』の戦力は限られているのだから。
わたしが一人で迎撃に出てきた戦力をすべて倒せば、『月の国』を守る戦力は無くなる。領土の制圧は後続の兵士の仕事だ。ランスやミリア、エミリアさん、リアちゃん、グレン様やマドカさん、そしてかつてのわたしが守ろうとした国は、半日後には滅んでいることだろう。
「私たちも御供させていただきます」
考え事をしていたせいで馬の足音に気づいていなかったため、突然かけられた声に驚く。振り返るとそこには、ラースとミースがいた。
「つっても二人だけだけですけどね。馬鹿な国長が、兵士長気分のままに援軍に行くとか言い出しやがったから、牢にぶち込んで代理で恩返しに来てやったわけです」
「私もミースも、こう見えて腕は立ちます。兵士百人分ぐらいの働きは期待してください」
「ありがとうございます」わたしはラースとミースに礼を言う。「ですが、まずはわたし一人で行きます。お二人は『光の帝国』の部隊と共に来てください」
作戦を説明した後も二人はわたしと共に戦うと言ってくれたが、それも断った。
あくまで戦うのはわたし一人。『光の帝国』の兵士にも、ラースとミースにも、傷ひとつ負わせるつもりは無い。サティ王子の平和を願う心に付け込んで兵を出させた以上、それがせめてものけじめだ。
だけど、それだけじゃない。今から対峙するのは、自分の手でケリをつけないといけない相手だと思うのだ。
月明かりに照らされる広大な砂の上。肉眼では気づかないほどの遠くに、四人分の人影を感じる。わたしは持ってきた花火に火を点ける。後方百メートルの軍隊へ、進軍停止の合図だ。後方で動きが止まったのを確認すると、わたしはゆっくりと息を吸う。息を吐くたびに、もっと深く自分の体が空気に溶けていく感覚。何となく感じていただけの四人分の人影が、輪郭まではっきりと感じ取れる。地面を蹴る。砂の間の空気を固め、わたしは砂の上を三歩駆けた。左の肘を前に出す。背中の後ろの空気に意識を手中させ、そして四歩目で前に跳ぶのとあわせて、わたしの体を思い切り前方へと押し飛ばした。
そこからは一瞬だ。二百メートル近く飛んだわたしは、肘を左から二番目の人影の胸元めがけて突き立て、その人影と共に更に五十メートルほど吹き飛ぶ。わたしの肘は大きなツララのような剣に阻まれ、着地したのも砂の上だったため互いにダメージはほとんど無い。けれどランス王子を、作っていた魔法式から遠ざけることには成功した。
「ナナミ、確認させてくれ」ランス王子が言う。「君は何をしにきたんだ?」
「あんたを殺しにきたのよ、バケモノ!」
「そうか。では僕が消えればそれで満足なんだね?」
「いいえ、バケモノを生み出した『月の国』も滅ぼす。感情の無い、自分の命に愛着なんて無いあなたでも、これは無視できないわよね。だって、そういう存在なんだから」
「そうだね。僕はどんな手を使ってでも、君を止めなくてはいけないようだ」
ランス王子は腰の鞘から剣を抜く。わたしも手鏡を取り出そうと、ポケットに手を入れたときだった。
背後からナイフのようなものが飛んでくるのを感じて振り返る。本数は四本。能力で捕まえるのは間に合わなくて、わたしは咄嗟に飛び退く。一本が左肩を掠め、しかし続いて投げられた四本は能力で捕まえ、空中で動きを止める。それを意に介した様子も無く、こちらに駆けてくるのはエミリアさんだった。
「ランス様、離れてください!」
エミリアさんが跳ぶ。わたしから三メートルほどの位置で地を蹴り、右の拳を振りかぶっている。わたしはエミリアさんの体を能力で捕まえる。エミリアさんの体は空中で固定され、しかし、
パチン――――――
指の鳴る音。次の瞬間、エミリアさんは氷でできた四本のナイフを右手に構えていた。エミリアさんの腕には以前には無かった刺青があって、それに気付くよりも早く、四本の氷のナイフは投げられていた。咄嗟に能力で自分の体を弾き飛ばす。調整をする余裕も無くて、わたしの体は地面と水平に飛ぶ。けれどそれに追いつく速さで飛んできたのは、背中に翼を生やしたミリアだった。振り下ろされる拳。咄嗟に胸元で腕を交差させ、直後、わたしは砂の上へと叩きつけられた。
息が詰まる。衝撃で目の前が一瞬、真っ白くなった。それでも視覚が戻るより早く、わたしは再び拳を振り上げているミリアの姿を能力で確認した。ミリアは地を蹴り、わたしのすぐ上まで飛び掛ってきている。人の出せる脚力を超えた速度――けれども想定内の攻撃に、わたしは冷静だった。
「それじゃ、わたしには勝てないよ」
わたしは意識がミリアの体を捕捉する。地から足が離れたミリアの体に、そのまま真横に力を加える。二枚の翼が風を捕らえるより強く、わたしは能力でミリアを十数メートルほど弾き飛ばした。再びミリアは立ち上がるが、前に進もうとする力を相殺して押し返すように力場を作る。イメージしたのはミリアを一歩も近づけさせないための見えない壁。腕を何本に増やそうと、どれだけの長さに伸ばそうと、それら全てをわたしは能力で弾き返した。
それからわたしは、エミリアさんへと歩み寄っていく。わたしの能力で地面から二十センチほど浮いていて身動きの取れないはずのエミリアさんは、それでも臆することなくわたしを睨んだ。一歩踏み出すたびに指の鳴る音と、氷のナイフが空気を切る音が聞こえる。エミリアさんが投げるナイフを能力で叩き落とし、叩き落し、叩き落とし、六十を数えたあたりでようやく手の届く範囲にわたしが立つ。
ナイフを握った右手が振り下ろされる。今度は良い鋼でできた『剣の国』製のナイフだ。わたしは左手でエミリアさんの手首を掴むと、ナイフを睨んで力を込めること十二秒。甲高い音がして、根元からへし折れた刃が飛ぶ。それをわたしは掴むと、エミリアさんの右腕の内肘にナイフの刃の切っ先を添えた。
「ナナミちゃん……ランス様を殺すつもりなの?」
エミリアさんが訊く。
エミリアさんは優しい人だ。誰かが傷つけば哀しみ、誰かが亡くなれば涙を流す。記憶を失って『月の国』で生活していた頃には、いろいろと励ましてくれたりもした。
きっと同情や罪悪感もあったのだと思う。わたしのお父さんとお母さんが殺されたに日に、エミリアさんたちもあのバケモノと一緒にいたのだから。
わたしは、そんなエミリアさんにだからこそ聞いておきたいことが――ううん、気付いてほしいことがあったのだ。
「逆に訊くのですが、どうして『ランス』ではなく『ランス様』なんですか?」
「……どういうこと?」
「わたしが『月の国』にいる頃、言われたことがあるんです。『様』はいらない、『ランス』と呼んでほしいと。だけど一年前の今日、出会ったときにはもうすでに、彼はバケモノだった。心が無いはずの彼が『呼んでほしい』なんて思うはずがないんです。今の彼は、かつてランスの心があった頃の考え方を真似しているだけ……だからあの言葉は、わたしじゃなく、かつて別の誰かに向けられた願いだったんだと思います」
「それって……」
「ミリアが言ってたんです、『ナナミちゃんが、ランス様にとって特別だった』と。だけどそうじゃない。わたしが特別なのではなく、わたしだけが普通だった。誰一人としてランスの隣に立とうとはしなかった。だから滅ぼすんです、バケモノを生んだ国ごと全部っ!」
そしてわたしは、魔法式を半分に切り裂くように、ナイフの刃で肘から手首までを一気にエミリアさんの腕を切り裂いた。
叫び声。苦痛とも嘆きとも取れないそれを吐きながら、エミリアさんの体が砂の上に落ちる。エミリアさんはもう戦えるはずはなく、だから能力を解いたのだ。
そしてわたしが、力場のせいで前に進めなくなっているはずのミリアに振り返ったときだった。
ブチブチブチブチッ――――――
何かの千切れるような音。おぞましい音が空気を震わせ、わたしの背中を寒気が駆け上がった。わたしの目に飛び込んできたのは、出鱈目に筋肉を付け足したかのように四肢を膨らませた、拳を振りかぶったミリアの姿だった。
内出血で黒ずんだ手足。激痛を上書きして叫ぶ咆哮。想定外の対応に弱いわたしの能力は、一瞬で十数倍にも跳ね上がった脚力を抑えきれず、ミリアの突破を許してしまったようだった。
「ナナミィィィィィィィィィッ!」
瞬時にわたしの目前に現れたミリアをわたしは止められない。ミリアの右拳にだけ意識を集中するが間に合わず、わたしは頬に拳を叩きつけられて大きく吹き飛ばされた。柔らかいはずの砂の上を四度跳ねて転がり、さらに飛びかかってくるミリアを察知したわたしは、能力で自分の体を更に転がす。
ポケットの手鏡を取り出す余裕も無く、ミリアの拳が襲って来る。能力で自分の体を飛ばしても逃げ切れない脚力と、全力で止めようとしても止まることの無い腕力。ミリアの胴を能力で浮かし、しかし押し飛ばすよりも早く、ミリアの腕が伸びてわたしの腹に拳が叩き込まれる。
能力が解ける。息が出来ずに塞ぎこむ数秒は、ミリアを相手にするには致命的な隙だった。
「ナナミちゃん、どうしてっ!」
ミリアの拳を辛うじて左腕で受ける。硬いものが折れる音がして、しかしそれはミリアの拳から聞こえたものだった。それでも酷く重い鈍痛が脳裏まで響き、けれどここで立ち上がらなくてはいけないと、本能的に両足が動いた。
そこから先は殴り合いだった。意識をミリアの両手に絞り、拳の速度を減速させる。腕でそれを受け止めると、今度は自分の拳に力を上乗せして、ミリアに叩きつける。
「どうして……」ミリアが叫ぶ。「なんで……どうして来ちゃったんですか!」
「それは、あのバケモノがこの世界にあってはいけないものだからよ」
「ふざけないでっ!」
再び振りかぶられるミリアの拳。わたしは振り下ろされるミリアの右手を左手で払って受け流すと、
「ふざけてるのはどっちよ!」
思い切り拳をミリアの腹に叩き込んだ。
ミリアがよろける。ミリアの反撃をかわし、わたしは頬に左手でもう一発。それでミリアは砂に膝をついた。
「国を滅ぼして、罪の無い人をたくさん殺して……いつまでそんなことを続けるつもりよ!」
「いつまでもです!」ミリアは迷いも無く答える。「『月の国』を滅ぼそうとする人がいる限り、いつまでも! この身が朽ちるまで何度だって戦います。わたしたちが戦わないと守れないんです! ねぇ、それっていけないことですか? 大切な景色を、人を、国をっ、守りたいと思うことが悪いことだと言うんですか!」
「じゃぁどうしてそんなに辛そうな顔をするのよ!」
叫ぶ。何が正しいかなんて分からなくて、それでも納得できなくて、だからわたしはこの理不尽を絶対に認めたくは無いんだ。
「ねぇミリア。何が悪いかなんてわたしには分からない。だけどミリアの言っていることは悲しいことだと思う。とても悲しいことだと思うのよ」
「じゃぁどうしろって言うんですか! わたしたちだって、本当は平和に暮らしたかった。誰も殺したくなんてなかったのに!」
「だけどこれから先、『月の国』は狙われ続ける。資源に乏しい国はただ生きるために、自分よりも弱い国から奪うしかないんだから。その度に相手の国を国民全員ごと滅ぼして……だけどたった数人で守られてるだけの『月の国』は、いずれ搾取されて酷い滅び方をする。だから今日、わたしが地図から消すのよ。この狂った国の名前を!」
「いつか滅びるからって、今すぐ手放すわけにはいかないんです。そもそも『月の国』は、わたしたちからは戦争はしない。そもそも『剣の国』との戦争だって、最初に仕掛けてきたのはそっちでしょう! これから先、どれだけの人が悲しんだとしても、それでもわたしの国は『月の国』なんです!」
「だったらわたしのお父さんとお母さんを返してよっ!」
「――――――っ、」
「目の前で二人が燃えていくのを見ながら、一人だけ生き残ってしまったわたしの気持ちが分かる? 楽しかったはずの思い出が脳裏を過ぎるたびに、胸が締め付けられて涙が出そうになる。ミリアの言葉がないがしろにしようとしたのはそういう気持ちよ。……だけど、本当はミリアたちも苦しいんでしょ? 悲しんでくれてるんだよね。だからさ、もう終わりにしよう。こんなことはもう、終わりにしなくちゃいけないのよ」
ミリアの目から涙が零れる。いつだってそうだ、ミリアは誰かが悲しむことを悲しんで、誰かが辛い思いをしていることが辛いと感じていた。いつだって自分のためじゃなく、大切な人のために傷つき、戦ってきたんだったね。だから……
「それでもわたしの一番大切な人の願いは、わたしが守ってあげなきゃいけないんです!」
立ち上がると分かっていた。ミリアはいまでもランスのために戦い続けているんだから。
ミリアが拳を突き出す。足元のふらつくミリアの攻撃を、わたしは敢えて避けなかった。左手に力を乗せて、わたしも拳を突き出す。
ミリアの手がわたしに届くのと、わたしがミリアの頬を殴るのは同時だった。
ふらつく足をこらえ、意地でも倒れるものかと砂に埋まった足を踏ん張る。それでも自分の体を支えるのに、能力は使わなかった。
先にミリアの腕が、力なく落ちる。
「わたしの勝ちね」
ミリアの体が砂の上に倒れる。もう指一本動かせないはずのミリアは、それでも顔を上げ、そしてわたしに言う。
「いいえ、わたしたちの――」
「――勝ちです」
ミリアとの戦闘に意識を集中していたわたしは、いつの間にか背後に立っていた存在に気付かなかった。背後からの声に、わたしは振り返る。次の瞬間、わたしの腹に押し当てられたのは、小さな左手だった。一瞬、痛みが走ったあと、右の脇腹が何も感じなくなる。咄嗟に飛び退くが、ずっしりと全身が重く感じて、わたしは砂に膝を着く。
「お久しぶりです、ナナミさん」
そこに立っていたのは、小麦色の肌に対称的な銀色の髪をした女の子。いつも左手に巻いていた包帯をはずしたリアちゃんだった。
リアちゃんが自分の左胸に右手を重ね、取り出したのは血のように赤い歪な形の結晶。リアちゃんの左手が砂のように崩れて、風の中に溶けていく。
「動かないでくださいです。一歩でも動けば、わたしの左手が全身を腐らせますよ」
「リアちゃん……」
「これで詰みです。粒子化したわたしの腕を密集させれば、ナナミさんを骨だけにするのに半秒も掛かりません。能力を使ったり剣を抜いたりしたら殺します。ナナミさんがいなければ、わたし一人でも五万人の兵士を全滅できますし……どうです? 身動き取れませんよね?」
その通りだ。エミリアさんはともかく、ミリアとリアちゃん、そしてランス王子の相手ができるのはわたしだけだ。だから兵士達は待機させてきた。現状ではどれだけ人間がいようと、『光の帝国』の戦力はわたし一人だ。考えてあったリアちゃんへの対策を今ここで使うべきか考えていると、わたしが抵抗しないと思ったのか、真剣だったリアちゃんの表情が変わる。
「ナナミさん……帰ってきませんか? 『月の国』に」
リアちゃんはわたしに微笑んで、そう言った。
「ナナミさんの料理と慌しさにはいつも困らされましたけど、ナナミさんがいた日々はとっても楽しかったんです。ミリア姉もエミリア姉さんもいますけど、やっぱりナナミさんもいてほしいよねって、ときどきそんな話にもなるんです。だから三人で決めたんです、ナナミさんを説得しようって。こんな乱暴な方法になっちゃってごめんなさいです。だけど、ナナミさんにとってもわたしたちとの時間が楽しいものだったのなら、やっぱり嬉しいかなって、そう思ったから」
「……わたしが一瞬で、能力を使う間もなくあなたを殺せるとは考えないの?」
「できると思います。でも、しませんよね? それなら初めから、わたしたち三人の首を跳ね飛ばしてるはずです。それに、一緒にお仕事をしていたんです。顔を見ればそれぐらいは分かるつもりです。それよりも返事、聞かせていただけませんか?」
躊躇う。言葉にしてしまえば、決心が鈍りそうで。
『剣の国』での記憶を思い出さなかった方が幸せだったかもしれないと、そう考えたこともある。二度と戻ってはいけないはずの日々に、未練や愛着が無いといえば嘘になる。お父さんとお母さんを殺したはずの人たちを、どこかで憎みきれていない自分がいることも分かっている。
悩んだ末、どうせ言葉にするのなら、最大の感謝の気持ちを込めようと決めた。
「楽しかったよ。本当に、毎日が楽しかった」
「ナナミさん、それじゃぁ……」
「でも、ごめんね。もうわたしは、あの日には帰れないの」
リアちゃんが今にも泣き出しそうな顔で歯を食いしばる。
「なんでっ、どうして分かってくれないんですかっ!」
「あのバケモノの存在だけは、どうしても許せないからよ」
一歩、歩を進める。
一緒に仕事をしていたのはわたしも一緒だ。顔を見ればリアちゃんに殺す気があるかの判断ぐらい、わたしにもできる。肌に刺すような痛みが走り、服の生地が、皮膚が、朽ちてどす黒く変色していく。それでも肉が削がれ、体が朽ちることは無かった。
「本当に……本当に殺しますよっ!」
「無理よ、それはリアちゃんにはできないわよ」
「できます! 本当のお父さんとお母さんだって、わたしはこの手で殺したんです。だからわたしはもう、大切な人だって殺せるんです!」
「違う。それは違うよ。だってそのことを何より後悔してるのが、リアちゃんだから」
リアちゃんの場所まであと数歩。涙を流しながら、それでも仲間のために頑張ろうとする小柄な十二歳の少女の姿がそこにあった。
砂を蹴る音。突然、リアちゃんがわたしの体に抱きついてくる。
「ええ、たしかに殺すのは怖いです。だけどランス様やミリア姉にさせるぐらいなら、すでに手が汚れてしまっているわたしがやります」
そう言ったときの、リアちゃんの目は本気だった。
「駄目ぇぇぇぇぇっ!」
少しはなれたところでミリアが叫ぶのが聞こえる。一歩も動くことのできないミリアは、それでもこちらに腕を伸ばす。しかしその腕は一瞬で腐り落ち、肘から先が欠落した。リアちゃんが能力で腐らせたのだ。
そして次の瞬間、足元に黒く細い線が刻まれるかのように、これ以上朽ちるはずのないはずの砂が朽ちる。直径十メートルほどの円の中に更に円がふたつ。それに沿って文字が書かれ、内側に芒星が描かれた文様。それがわたしとリアちゃんを囲むように、一瞬で作られたのだ。
「これは、魔法式……」
「ナナミさん。せめて、わたしが一緒に逝ってあげます。独りは寂しいですから」
リアちゃんの笑顔が炎に照らされて赤く染まる。足元の魔法式からは炎の柱が立ち上がり、一瞬でわたしたちを包んでいた。
あの時と同じだ。何も分からないままに全てが炎に包まれて、全てを失ったあの日。何も出来なくて、何も守れなくて、それなのに自分だけが生き残ってしまったあの日。後悔だけが駆け巡って、頭が割れそうに痛くなる。何も考えられない頭で、何も守ることが出来なかったはずの両腕でわたしは、今度こそリアちゃんを抱きしめていた。
「あ……」
炎がわたしとリアちゃんの体を避けていく。四方を炎に包まれながら、それでも全く熱くなかった。あのときと一緒だ。それでもただひとつ違うのは……
「……守れた」
頬を水滴が伝うのを感じる。どうして自分が泣いているのかも分からないまま、それを拭うことも忘れて、わたしは少しの間、呆然としていた。
「ナナミさん、これは……」
戸惑っているリアちゃんの声で我に帰る。
わたしはリアちゃん右手に自分の指を重ねると、その手にある赤い結晶を砕く。魔法式を掻き消すと炎は消え、安堵したようなミリアの顔が見えた。
おそらく能力を使いすぎた反動だろう、気を失ったリアちゃんを砂の上に横たえる。わたしも頭痛が酷い。わたしもこれ以上能力を使えば倒れてしまうだろう。
ポケットに手を入れる。冷たい金属の感触。わたしは手鏡を取り出すと、その淵に刻まれた魔法式を展開する。ふらつく足を踏ん張って、霞んで焦点の合わない視界で、金髪碧眼の少年の姿を睨んだ。
「来たわよ、ランス」
「けれどここで終わりだよ、ナナミ」
砂を蹴る。剣を構える。東の空が僅かに青みがかっていた。頬に冷たい風を感じながら、わたしは駆けた。
初めてランスという少年を知ったのは、一年前の今日だった。
優しい笑みが印象的な、穏やかな少年。記憶を失っていたわたしを拾って、何も無いわたしにとても優しく接してしてくれた。家族というものがどういうものかも忘れていたわたしにとって、それはとても温かいものだった。
恋もした。守りたいと思った。少年の心が失われていると知って、非道な行いに手を染めていると知って、記憶が戻ったときには全てが崩れていくような気さえした。本当の意味でわたしは、ランスと一度も会ったことが無かったのだ。少年はバケモノだった。わたしはそのバケモノを憎んだ。憎悪に突き動かされながら、気が狂いそうになりながら、ここまで駆け抜けてきたんだ。
手鏡の先に伸びる刃を振りかぶる。指を鳴らす音。彼がその手にもつ剣を核にして、ツララでできた長い刀身が現れる。わたしの刃は受け止められ、それが押しのけられたあと、反撃が来る。わたしはツララの刀身を刃で受け流し、次いで放たれる突きも払い除けた。
互いに言葉は無かった。自身の言葉を持ち合わせない少年に、もはやわたしも語ることは何も無かった。『月の国』を守る存在である少年に、わたしは滅ぼすと宣言した。それだけで語られるべきものはすべてだった。
わたしがまだ何も知らない頃。まだ十分にこの少年を理解できていない頃。少年の優しい振る舞いにどれほど心を救われただろう。地の底に落ち、記憶も失っていたわたしにとって、それはどれほど暖かなものだっただろう。その振る舞いが、似たような状況で別の誰かに差し伸べられただけのものだと知ってなお、それでもわたしは感謝した。本当の意味で、あの笑顔を向けられてみたいと夢にまで思った。一度も会ったことが無いはずなのに、わたしはランスを好きになった。ランスがもういないと理解し、彼と同じ顔をしたバケモノが人の道を踏み外していることを思い出し、自分を騙しきれなくなったときは、まるで地面が崩れていくようだった。
甲高い音が響く。振り下ろした刃が弾かれること数度。一度も刃が届かないものの、少年の剣も何とか受け流すことが出来ている。指が弾かれる音がして、飛んでくるツララ。それを寸でのところでかわし、わたしは少年の首を目掛けて一閃。しかしそれも防がれる。指を鳴らす音が聞こえて咄嗟に刃を戻して飛び退くと、わたしが居た場所にツララが現れていた。再び少年が指を構えたので、わたしはあえて踏み込んで左胸を目掛けた突き。牽制のつもりで放ったそれを、少年が紙一重でかわす。相性もあるのだろうが、剣の腕だけならば、僅かにわたしのほうが上のようだった。
「そんなのでいいの? このままじゃ『月の国』は滅びちゃうわよ」
挑発する。わたしは辛うじて受け止められる程度に加減して、横薙ぎに刃を振り抜く。防がれる刃。続けて急所を狙うこと三度。それらが全て弾かれたあと、少年が再び突きの構えをしたのを確認して、わたしは受け流す準備をする。
単調な攻撃。隙だらけの構え。違和感を覚えつつも、おそらくこの攻撃をかわせば、少年を斬ることは容易だと判断する。わたしが一歩を大きく踏み出したところで、作られる五本のツララ。しかしそれは想定内だった。
飛んでくるツララを全て叩き落し、更に一歩踏み込む。直後、放たれる突き。狙いは真っ直ぐにわたしの左胸へと伸びていた。わたしはランスの突きを受け流すように手鏡の刃を振り、
しかしその途中で、わたしは手鏡をその手から放す。
砂を掻き分ける音。剣撃の音が止み、砂交じりの風の音だけが響いた。
風が止む。赤く重いものが零れ落ちる。ぽたり、ぽたり、砂に落ちる音だけが静まり返った世界に響く。
激痛。それでもわたしは痛みのままに声を叫ばせるのを堪える。
少年の剣は深々と、わたしの左胸に刺さっていた。
視界が霞む。もう自分の手の輪郭さえ見えやしない。だからそのまま一歩、二歩、わたしは力の入らない足で砂を抉り、前へと歩み寄る。
まぶしい光が差す。夜明けだ。ふと胸を押す抵抗が無くなり、ようやくわたしの両手が頬に届く。
震えていた。薄い唇は言葉を作ろうとして作れず、青い瞳は驚愕で見開かれていた。
わたしは激痛と苦しさで意識が遠くなりそうな中、それでも自分が笑っていること感じることができた。だって……
「やっと会えた」
今は、とても幸せな気持ちだった。
「ナナミ……」
初めて聞く、ランスの声。ずっと聞きたいと思ってきた声。ずっと会いたいと思っていた人が今、目の前にいる。意識が遠のいていくのがもったいないぐらい、わたしはその言葉を噛み締めた。
欲を言えば、もっと生きていたい。本当はランスの笑顔も見たかった。明日も明後日もずっと一緒にいれればいいのにと、今さらながらに自分の命が惜しくなる。けれどそれは叶わないから、絶望のままに叫びだしそうになるランスの背に腕を回し、上げるのもやっとの感覚のほとんどない手で抱きしめて、わたしは言う。
「忘れないで、ランス。それが心だよ」
「そんな……僕なんかのために」
「ううん。わたしは満足してる。自分の命よりも、もっともっと大切な人と出会えた。だからわたしの人生は、十分に幸せだったよ」
だから、『僕なんか』なんて言わないで。その言葉にランスは首を横に振る。冷たく硬く、だんだんとわたしのものではなくなっていく指先に、温かいランスの体をより一層感じた。
好きだと伝えたかった。今腕の中にいるランスのことが好きだと。けれどそれがランスにとって枷になってしまいそうで怖かった。これからランスが歩くのはとても苦しい道になるはずだ。けれどそこに、わたしは一緒にいてあげることは出来ない。きっとこの先、ランスは誰かを好きになって、わたしのことも忘れていくのだろう。そうなればいい。ランスには幸せになってほしい。だけどランスに忘れられることを思うと、胸が締め付けられるように痛んだ。どっちが正しいかなんて分かってる。自分がどうすべきかも分かっている。けれどこの気持ちだけは我慢できなくて、だから聞こえるか聞こえないかの小さな声でわたしは囁いた。
わたしの首筋に温かい水滴のようなものが触れる。涙だろうか。わたしのために泣いてくれているのなら嬉しい。わたしの背中にも二本の腕で締め付けられる感覚。嗚咽交じりに何度も呼ばれるわたしの名前。わたしも呼び返そうとして、けれどもう声が出なかった。息を吸おうとするたびに空気がただ逃げていく感覚。次第に意識が薄くなりつつあるのを感じる。わたしに残された時間はもうほとんど無いのだろう。だからわたしは最後の力を振りしぼって、唇をランスのそれに重ねた。砂混じりの乾いた口付けはどこかふと甘くて、自分が世界に溶けていくような気さえした。
希望を見るのだ。
ランスが笑っていて、その隣にはミリアとリアちゃんとエミリアさんがいて、幸せそうなグレン様とマドカさんがいて、争いの無いところでのどかに暮らしている、そんなユメを。わたしにじゃなくていい。ランスを笑顔にできるみんながいて、その笑顔が嬉しいと思ってくれる人がいればいい。そんな素敵な日がいつか来ると願い、いつか叶ってほしいと祈り、ミリアたちならきっと大丈夫だと信じられるから、わたしはゆっくりとまぶたの裏で意識を閉じる。
ゆっくりと、暗いところへと落ちていく。
どこまでも、とても穏やかな気持ちだった。




